『やぎの冒険』鑑賞録

 先のエントリーでも触れましたが、先日2011/1/9(日曜日)に映画『やぎの冒険 オフィシャルサイト』を池袋テアトルダイヤで観ました。
 寸評:この映画は今年のベスト5候補一番乗りです。映画らしい映画でした。主役の男の子の二人が本当にいいし、助演陣(人間だけじゃなくやぎも)文句ないです。少年の成長物語でありながら、実はこの映画が突きつける「生きる」ということの暴力性=食べるために家畜を飼うことについても考えされるし、別の意味の暴力性=ペットとして支配する側にいることも突きつける、それが主役の男の子の対比となっている人物設定、さらには台詞まわし、演出。方言や衣装、フード描写も完璧。観終わって、映画的には「消化不良」なんだけど、この余韻の切り方はお見事でした。個人的には『サイタマノラッパー』や『ヒーローショー』の「消化不良感」を凌駕している。これは本当にあたりです。

 評価はS。文句なしにワタシのなかでは大切な映画になりました。
 イントロダクション、俳優、スタッフは以下の通り;

物語
小学6年生の裕人は那覇の街っ子。冬休みを母の田舎の今帰仁村で過ごそうと、ひとりバスに乗り沖縄本島北部へやってきた。赤瓦のウチナー家に住むのは、やさしいオバアとオジイ、粗野な裕志おじさん、同い年のいとこ琉也、2匹の子やぎポチとシロ。ヤンバル育ちの少年たちと自然の中で楽しいときを過ごす裕人。
ある日、2匹の子やぎのうちポチがいなくなっているのに気づく。しかし、裕人が目にしたのは地元の人たちに「つぶされる」ポチの姿だった。ショックを受けた裕人を尻目に、今度はシロを売ろうとする裕志おじさん。そのとき、シロが逃げた!
キャスト&スタッフ
キャスト
上原宗司(金城裕人 役)
儀間盛真(大城琉也 役)
平良進(東江茂 役)
吉田妙子(東江ヨシ子 役)
津波信一(儀間信二 役)
山城智二(バスの運転手 役)
仲座健太(東江裕志 役)
金城博之(良太 役)

スタッフ
監督:仲村颯悟(なかむら・りゅうご)
主題歌:Cocco『やぎの散歩』
プロデューサー:井手裕一 協力プロデューサー・監督補:月夜見倭建 脚本:山田優樹/岸本司/月夜見倭建
撮影:新田昭仁 照明:新城匡喜 録音:横沢匡広 衣装・メイク:むらたゆみ
音楽監督:ASIAN GHOST MOVIES 助監督:牧野裕二 製作担当:上里忠司 編集:森田祥悟
やぎの冒険」製作委員会:株式会社シュガートレイン/株式会社沖縄タイムス社/琉球放送株式会社/株式会社インデックス沖縄
後援:沖縄県 沖縄県教育委員会 (財)沖縄観光コンベンションビューロー (財)沖縄県産業振興公社 (株)沖縄県物産公社 今帰仁村商工会
 (2010年/日本/カラー/84分/ヴィスタサイズ/DTS)

 これからネタバレ込みの感想と分析;
 この作品、作り手たちの熱意が充分に伝わる素晴らしい作品でした。役者陣も全員文句なしです。さらに全員が沖縄で活躍する作りたちであり、主役の裕人(上原宗司)、盛真(大城琉也)は現役の小学生!しかも映画では演技とは思えない、本当にそこにいる子どもたちであり、彼らがなぜ仲良くなっていたのか、そして後半では対立するのか、少ないけれど確信ついた台詞で語らせます。この映画何がすごいって、まず脚本がしっかりしているから映画観ていて無駄なシーンが1つもないんだよね。
 もちろんキャストには出ていませんが、2頭のやぎ(シロとポチ)の名演しています。この監督、どうやったらこんなに動物をかわいく撮れるの?と思うくらい見事でした。それがテーマである「食べる」と結びつくんですが、このやぎの2頭の描き分けも実にストイックなくらい見事です。
 演出やロケハン、衣装についても完璧です。舞台は沖縄映画ではおなじみの今帰仁村なので、既視感がある方もいるかと思うけれど、ヤンバルのサトウキビ畑や共同売店、砂浜ならびに海の使い方、さらには那覇の描き方も本当によく出来ているし、なぜこの物語には父親が不在なのかをアパートの寝ているシーンだけで説明しようとしているのもすごい。さらに脇を固める役者陣は沖縄では一流の役者陣が演じているのに、それを全く感じさせないくらい、いいです。
 那覇から今帰仁まで裕人がバスで移動するシーンについては、沖縄(本)島出身者としては、沖縄島の南部・中部・北部のロードムービーとして、短いながら本当に見事です。中部では普天間基地や嘉手納基地が映り込んできます。この点と儀間信二(津波信一)が選挙カーや街頭演説で訴える米軍基地の北部移設に絡めて、駐沖縄在日米軍基地関連に結びつけるレビューがありましたが、この映画はそんなの焦点にあてていない。そこに存在する施設であり、それに対する描き方も見事です。
 沖縄(本)島で生まれ育った人間から観たら、国道58号線国道329号線国道330号線を通過する際には必然的にどこかの軍事基地沿いの道路を通るだけの話であって、この映画で米軍基地云々は的外れ。ただ嘉手納基地に降り立つ飛行機のシーンとかもあるからだと思うけれど、この監督からしてみたら、コザや嘉手納のあたりのリアリティってこれが当たり前でしょ?というかもしれない。産まれたときからこの街には基地があって、戦闘機が飛んでいるのが当たり前、それがデフォルトであるのをそのまま絵にしたら、勝手に変な風に読み込む観客がいてもおかしくないだろうな。だって那覇にも今帰仁にも基地は目に見える目立つ位置にないからね。ただし那覇軍港は除くし、キャンプ瑞慶覧やキャンプシュワブとかは、地元生まれだけどなかなか観る場所まで行かないからね(これは問題含みの発言だとは思っていますが)。
 
 こんなことより映画本編の話だった。
 この映画、衣装やメディアの使い方がとても上手で、丁寧だった。演出ってこういう細かな点が雑だと本当にガッカリするけれど、この監督は、本当に映画の見せ方わかっているよ。
 まず衣装だけど、主人公の裕人は那覇生まれの子なので、衣装がこざっぱりしていておしゃれではないけれど、東京の小学生とも変わらない服装をしている。さらにケータイを持っている。対照的に裕人のいとこの琉也をはじめとして、今帰仁の子どもたちはどこか汗がしみ込んだ、少しよれよれの服を着ている。
 あと重要な衣装として「靴」がある。つまりこの村=コミュニティでなにを履いているのかが、キャラクターの人物背景を示すアイコンにもなっている。裕人は那覇から今帰仁までは靴を履き、もう2人「靴」を履いている人物が出てくる。一人は村議会議員(候補?)の儀間信二。彼は議員として映画のなかではずっとスーツで、選挙カーを自身で運転しながら村を動き回っている。もう一人「靴」を履いているのは、映画のなかではほとんど出演機会のない良太(金城博之)である。ほかの村の人たちはサンダル(ただし、沖縄的にいえば「ビーサン」(ビーチサンダルのこと)を履いている。
 「靴」を履いている良太と彼の結婚相手については多くは語られないが、映画のなかでは重要なキャラクターとして位置づけられる。先にネタバレしておくと、良太という人物はこの村の余所者である。その人物が村の一員として歓待されるためには、彼と彼の結婚相手は村のメンバーにご祝儀としてお振る舞いをしなければならないことと、村の男としての通過儀礼としてある行為に参加することが必要になるのだ。そのシーンは、裕人の叔父・東江裕志(仲座健太)が語るある儀礼での経験と身体技術についての語りで示される。
 衣装についても、映画『信さん』で思ったことと同じでした。衣装がしっかり描かれると、その人物の社会階級/階層がしっかりと描かれていること。特に琉也をはじめ、今帰仁の子どもたちの衣装は文句なしです。ビーチサンダルの色も違うしね。共同売店で、やぎを追いかけるために裕志が子どもたちをけしかけるシーンで、カネをせびられるときの服装も文句ないです。
 メディアの使い方も裕人と琉也、さらには琉也の友達の描き分けも見事でした。その材料が裕人が持っている携帯電話なんだけど、裕人からすれば母親との連絡手段でしかないが、琉也の友達からすれば川遊びさなかに、ケータイを弄って遊んでいるなじみのないモノとして描かれる。あと、ケータイが村のなかにも認知されているが、結局のところ、個人所有ということをわからずにおじいが出てしまう件もいいなぁ。

 さらにこの映画の本筋である、やぎについて=食物としての動物の接し方について。
 この映画はフード理論的に言ったら、文句なく正しい視線と突き放した演出で描かれた映画です。それと同じことを繰り返しますが、「暴力」についても正しく向き合っている映画でした。
 「フード」と「暴力」という相反する事柄かもしれないが、この映画の特筆すべきところは、このテーマを正直に描いている。これが映画の評価を高くするポイントです。端的に言えば、思いっきり,この物語の根幹部分ですが、動物を食べるということです。つまりこういうことです。動物の肉を食べるという行為は、どれだけ「暴力」的な行為なのかということと、屠殺をして、皆で食べる行為の前提として/だからこそ、愛着をもって大切に動物を育てているということ。これが第一。第二に違う意味での「暴力」は、ペットとしてヤンバルの川にいた生物や、大事にやぎを飼い続けること。自分自身の愛着や興味関心があるときには、かごや水槽もしくは犬小屋で飼っている行為そのものが、飼われている側の生き物からすると一方的な感情移入で、勝手に大切にされていると思い込んでいるということを突きつけるのだ。映画ではやぎからの視点というものもちゃんと描いているし、やぎではないある生物のことも描いている。
 だからこそ、後半の裕人と琉也が、ヤンバルの森で家に帰れなくなって、野宿する件につながっていくんだよね。水槽にて鑑賞物として飼おうとしていたエビを、予告編に出てくる琉也の台詞のあとに出てくる焼いたエビを食べるシーンとか、本当にすごいんです。
 さらに「フード」と「暴力」でいえば、前半にあるやぎの屠殺シーンは、まさしく「フード」と「暴力」そのものを描いている重要シーン。さらにそのシーンには、「靴」から「ビーサン」に履き替えた裕人が、この村とは相容れないなにかを突きつけられたシーンでもあり、やぎを屠殺することはこの村の男たちにとっての通過儀礼であり、男性性の表現の舞台でもある。さらに生命に対して真摯に向き合っていく姿でもあるのだ。だけど、愛玩の対象としてやぎをとらえている裕人にはそのシーンが、村の人たちの野蛮性を際立たせるシーンとも重なるのだ。
 このやぎの屠殺シーンの伏線に、叔父の裕志が、釣った魚を捌くときに裕人は生き物を食べるときの「暴力」を観ているはずなのに/だからこそ、やぎのシロとポチが屠殺されるシーンがいきてくるのだ。
 予告編でも、オフィシャルスポンサーのCMでも流される琉也の台詞は何度聴いてもいいです。琉也がずっと育ててきたやぎにたいして、屠殺するときも、そしてそれを食べるときも彼は笑顔なんだよ。愛着もあるし、やぎに見つめられて、大切に育てていったのを売りに出すときも、それをある政治家の事務所開きであり、ある家庭の新築祝いであったとしても、浜でやぎを屠殺して、その場でやぎを焼くことは、彼にとって大人になるための1つの通過儀礼である。そして大切に育てたやぎをきちんと食べるのが、「日常的な営み」であり、「日常的な営み」が宿す「暴力」でもあるのだ。もちろん琉也ではなく、裕人も「日常的な営み」に宿す「暴力」の行使者でもある。すなわち裕人の場合は、食べるのではなく、眺めて支配するという「暴力」の行使者だ。そして縄につながれているやぎが、自分の世界から逃げ出さないし、寄り添ってくれるかもしれないと思っているのが、一方的な思慕なのだ。
 個人的に、裕人と琉也どちらも間違っていないし、映画的には裕人と琉也がそれぞれやぎと一緒にいるシーンがエンディングになる。この裕人と琉也がいる場所、見つめている先が、それぞれの答えであり成長の道しるべだと思っていた。答えのないエンディングで、Coccoの「やぎの散歩」が流れた時、不覚にも泣いてしまいました。
 裕人と琉也どちらにも感情移入できません。この映画は一方に感情移入するようなアホな作り方はしていませんし、結論を簡単に見せるようなことはしません。裕人と琉也どちらが好きか嫌いかで、エンディングの解釈が異なるかもしれません。その意味では本当に「映画」なんですよね。この泣いているのに、消化不良で、もやもやしっ放し具合が。
 そしてエンディング間際の新築祝いのシーンで、裕人と琉也がどちらもヒージャー(沖縄島のことばでやぎの意)を食べずにいたこと。裕人と琉也はそれぞれ、やぎとそばにいるけれど、やぎとどのように接しているのかが見事すぎます。

 エンディングで、裕人と琉也がやぎと一緒にいるシーンがあるけれど、これは沖縄の民俗学的宗教学的にいっても白眉の名シーンです。本当にこの監督中学生なのか?映像がうますぎだろう?あと研究者としてメモ取るシーン、読み込みポイントが多すぎ。

 おまけ的でもないですが、この監督が施した演出が素晴らしい点をいくつか。
 まず、砂浜のシーンがいくつかありますが、沖縄の砂浜が奇麗だとか言っている人はまず、砂浜だけでも観てほしいくらい完璧。沖縄辺りの島の砂浜は珊瑚が砕かれあとの石が砂になるのと一緒に、植物やらゴミがいっぱいなんだよ。あるシーンの象徴的な場面で空のペットボトルがでてきますが、それこそこリアリティを演出する絶妙な小道具でした。沖縄の海岸はちゃんと描けば、草が生えたり、ゴミが散乱したり、あと貝があって裸足で歩けないんだよ。
 もう1つ、必ずこの手の映画では指摘しておかなければならない最重要ポイントに、言語がある。
 監督がツィッターに書いたことを読んだんだけど、この映画に「日本語版」字幕はいらない。当たり前。
 だけど、方言とか訛りとかで文句が言っているユーザーがいたら、これからどうやって、映画やドラマを観るんだろう?老婆心ながら心配してしまう。
 この映画が必然的ににじみ出してくる「言語」については、方言や訛りについての「世代間」的なものを見事に描ききっているとは思うけれど、だって役者がそれぞれのキャラクターに没入させるだけの演出させた監督がすごいんだよね。役者って「演じている」のではなく、滲み出てくるものが醸し出せるかどうかなんだと本当につきつけられた映画でした。
 映画のなかでは「方言」が単語レベルで出ていたけれど、訛りやスラング(厳密にどこまで区分されるか判断できないけれど)の微妙なバランスがよかったです。この映画の登場人物の世代間差と、誰に対して言葉を発しているのか、併せて映画的にも「客」の理解できる言葉をどのように選び、敢えて選ばなかったのかを本当に見事でした。「沖縄県出身者」であるワタシが観てて、知っている単語と知らない単語が出てきたよと思うくらいに、キャラクターにそれぞれ言葉の意味を振り込んでいるし、それに応じる役者陣がすごいんだよね。

 えっとこれまで大絶賛モードで書きましたが、一個だけ苦言というかこの台詞いらなくね?的な舞台設定にちょっと惜しいところです。そこを直せばとかいいませんが。
 この物語設定冬だよね?「お正月」云々って台詞あるけれど。なのに、ビーサンで、半袖姿で川遊びはちょっとないなぁ。ヤンバルの冬って結構寒いぞ!下手すれば10℃を切るんだけど、半袖にビーサンはちょっと舞台設定としては弱いかな。この台詞はいらなかったか、設定を「夏休み」までにしてくれればOKです。
 
 あと「暴力」についての大事なところ書き損ねるところだった。
 この映画で、映像では出てこないもう1つの「暴力」の主体は野犬。沖縄(本)島で生まれ育ったリアリティとしての動物演出で犬と虫、さらには海老が見事だけど。「暴力」の主体から客体へと変わるシーンの、たき火のシーンは見事でした。沖縄島には野犬があちこちにいるなんて、久しぶりに思い出したよ。

 いろいろネタバレ込みで書きましたが、映画『やぎの冒険』。おすすめです。
 なにがいいか?「おすすめポイント」として、監督の若き才能はもちろんです。映像美ははっきりいって『ノルウェイの森』を凌駕しています。暴力映画でいえば『ヒーローショー』すら凌駕です。さらにはこの映画役者陣がすごいんですよね。主役の二人は主演級とはいいません。だってうまい人いっぱいいるから。だけど、この映画でここまで頑張った二人はマジで将来楽しみだけど、まだ中学生にあがる前で、この映画撮っているときも普通に学校行っていたんだよね。こういう原石見つけただけで、この映画は勝ち=価値です。

 2011.01.18追記;
 かなり勢いで書いたため日本語的におかしな点を修正しました。なので少しは読みやすくなっているかと思います。
 あと、ツィッターで紹介した主題歌を提供しているCoccoによる映画『やぎの冒険』評をご紹介。

(2011.01.18)
2011.05.05追記;
 Youtubeで、この映画の元になった短編の『やぎの散歩』発見。

中毒化する「連帯」と穢れない「化身」

 mixiに書いたので、リンクやタグは未修整です。日曜日に直します。エントリーです。リンクやタグは修正済み。
 土曜は浅草で三社祭なので。

 まずは、はてなで知った『読売』の記事;

携帯ゲーム中毒の主婦、中学生に売春させる
 携帯電話サイトのゲーム代を稼ぐため、知り合いの女子中学生に売春させたとして、警視庁は14日、東京都杉並区高井戸西、主婦慶田花(けだはな)由紀子容疑者(32)を児童福祉法売春防止法違反の容疑で逮捕したと発表した。逮捕は4月28日。

 発表によると、慶田花容疑者は昨年10月、昭島市内のホテルで、知り合いの公立中学3年(当時)の女子生徒(15)に対し、出会い系サイトで見つけた都内在住の中学校教諭(48)と2万円でわいせつな行為をさせた疑い。

 慶田花容疑者は、2万円のうち女子生徒には5000円を渡していた。

 慶田花容疑者は携帯サイトの「グリー」や「モバゲータウン」に熱中し、アバター(分身)や育成ゲームに登場するペットを着飾らせる有料アイテムを大量に購入。ゲーム代が月10万円を超えることもあり、「ゲーム代で生活が苦しかった。女子生徒は若いので客がとれると思った」と供述している。

 女子生徒とは昨年春、都内で偶然、知り合って親しくなり、「小遣いが稼げる」として売春を持ち掛けたという。昨年9月〜今年1月の間に客30人と売春させていたとみられる。女子生徒が今年2月、学校に相談し、事件が発覚した。
(2010年5月14日13時25分 読売新聞)
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100514-OYT1T00582.htm

 これだけの内容だと、ケータイゲームに嵌った主婦が、知り合いの女子生徒に売春をさせて、その利益をピンハネして、それをモバゲーやGreeにカネを突っ込んだ=貢いだとしか思えない。しかも売春を斡旋した主婦と、売春婦として客の相手をした女子生徒との関係は不明のまま。いくら『都内で偶然、知り合って親しくなり」ということがあったとしても、売春の胴元と売春婦としての関係を築くことができるのか疑問が残る。


 次に、同じニュースに関連してmixiニュースの元ネタである『毎日』の記事;

売春周旋容疑:女子生徒にノルマ、32歳女逮捕 警視庁
2010年5月14日 12時46分

 女子中学生に売春させたとして警視庁少年育成課は14日、東京都杉並区高井戸西2、主婦、慶田花(けだはな)由紀子容疑者(32)を売春防止法違反(周旋)と児童福祉法違反=淫行(いんこう)させる行為=容疑で逮捕したと発表した。慶田花容疑者は容疑を認め「キャラクターを育てる携帯電話のゲームに夢中になり料金が月額10万円を超えることがあった。生活が苦しくなり若い子を売春させて支払いに充てようと思った」と供述しているという。

 逮捕容疑は、09年10月18日、昭島市内のホテルで中学3年の女子生徒(当時14歳)を都内の男性中学教諭(48)に2万円で売春させたとしている。女子生徒は21歳と称していたことなどから、教諭は立件されていない。

 慶田花容疑者は女子生徒の友人を通じて知り合って自分の経験を話して誘い、09年9月〜今年1月に約30人と売春させ約40万円を受け取っていた。女子生徒は「手助けしたい気持ちで始めたが月10万円などのノルマを課されるようになった」と話しているという。女子生徒は今年2月に教師に相談、発覚した。【町田徳丈】
http://mainichi.jp/select/today/news/20100514k0000e040052000c.html

 『読売』の記事よりは、主婦と女性生徒との関係が記されている。二人の間には、「偶然の出逢い」ではなく、二人を仲介する人物がいたことが明らかになり、胴元である主婦は「自分の経験を話して誘」ったことになっている。だがこの記事では、主婦が供述した「自分の経験」とはなにかという疑問には答えていない。

 そして、最後に見つけた『産経』の記事(Yahooニュース経由です);

「携帯代の支払い苦しかった」 知人少女に売春させた女逮捕
5月14日12時48分配信 産経新聞
 出会い系サイトで客を募り、当時中学生だった知り合いの少女に売春させていたとして、警視庁少年育成課と昭島署は、児童福祉法違反(淫行)と売春防止法違反(周旋)の疑いで、東京都杉並区高井戸西、飲食店従業員、慶田花(けだはな)由紀子容疑者(32)を逮捕した。

 同課によると、慶田花容疑者は「携帯電話のゲームに夢中になり、携帯電話料金の支払いで生活が苦しかった」と容疑を認めている。慶田花容疑者の携帯電話料金は平均月約8万円、多い月は11万円を超えていたという。

 逮捕容疑は、昨年10月18日午後、都立高校1年の女子生徒(15)を中学教諭の男性(48)に紹介し、昭島市のホテルで、2万円で女子生徒にわいせつな行為をさせたとしている。

 同課によると、慶田花容疑者は当時住んでいたマンションの隣室が女子生徒の友人だったことから、女子生徒とも顔見知りになり、親密になった。その後、女子生徒に自分が生活苦で売春をしていたことをほのめかしたところ、女子生徒が「助けたい」と協力を申し出たという。

 慶田花容疑者は昨年9月〜今年1月までの間、客約30人から計約55万円を売り上げていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100514-00000562-san-soci

 『産経』の記事に1つツッコミを入れると、このニュースで「携帯電話料金」ではなく、あくまでもケータイを通してGreeやモバゲーにアクセスして、そこで課金した料金が桁違いに多くて、生活困難になったということだと思う。今更、ケータイでGreeやモバゲーするユーザーが、パケ放題をしていないとは思えない。
 ただ、3つの記事を並べて、それでも『産経』の記事が一番、丁寧な印象を抱く。主婦と女子生徒は生活空間でかなり身近な場所にいて、ある程度言葉をやりとりする関係だったのだろう。少なくとも主婦が生活苦を理由に「自身が売春している」ことを女子生徒に信じ込ませるほどの会話が行われていたのだから。さらに女子生徒にノルマを課すほどだとすると日常的に、主婦に管理されていたとも読める。「助けたい」という善意の感情による行為から、いつの間にか「労働者」として扱われていたわけでもあるように読める。

 ただ生活苦の原因が、モバイル端末でのゲームにおける、アバターやペット、そしておそらく他のゲームであったことをどれくらい知っていたのかどうかは、これらの記事では判断できない。

 もちろん買春する側の男性たち、ここでは中学教諭が出ているが、売春婦である女子生徒が年齢を偽ったら、立件されないというのはどうなんだろう。

 §§

 さて、今回のエントリーで、真っ先にいろいろ考えたのは、売春を斡旋した主婦であり、ケータイ端末でアクセスしたサイトに嵌り、多額のカネをペット(おそらくGreeクリノッペ)や自身のアバター、そしておそらく他のゲームでの道具などを購入したことについてだった。
 実はワタシもGreeしていました。主に釣りスタとクリノッペをしていましたが、それが原因でパートナーとケンカになったことをキッカケに4月中旬に完全撤退しました。アカウントを削除したので、日記や釣りやペットの記録もすべて削除されています。釣りだと川&海釣りで8段だったので、わりと経験していた方だと思います。クリノッペはあまりしていなかったので、レベルは低かったけれど。
 その経験があるからかもしれないのですが、ケータイ端末のゲームに多額のカネを注ぎ込んでいる人、一日中何かしらのゲームにアクセスしている人は多く見ました。しかもGreeだけじゃなく、ハンゲーム、モバゲーと一日中ケータイの画面とにらめっこ状態なんて人もいますし、特定のゲームにのみ集中している人もいました。
 その時のことを思い出すと、ケータイ端末の中のゲームになぜ多額のカネと、長時間を突っ込んで、やり続けられるのかということを何となくですが、感じられるのも事実なのです。
 今年に入ってからGreeのゲームをしていて、異様だなぁと思ったことは、ゲームの仲間を増やすこと、このことを1つのクリアの要素としたことがありました。釣りにしろ、探検にしろ、クリノッペにしろ、毎週行われるイベントや大会では、チームを作ること、協力プレイをする仲間を以下にたくさん集めさせることが、ゲームをすることいかに求められてくる。
 釣りだと、釣りバトルや釣り大会では、初心者を集めて、いかに貢献できるかでポイントやプレゼントがつき、釣りツアーでは大勢の仲間を集めて課題となるアイテムの数を競う。
 ここでは1つの事例として釣りスタをあげましたが、これがクリノッペや探検、ハコニワと4大ゲームで同時進行で行われ、登録していないゲームに関して初心者だと判断されたら、ツアーのメダルを贈って、ゲームに勧誘して、友だちになるなんてことは毎日のことでした。しかも1つ1つのゲームで、ある課題をクリアすれば、それをすぐさま日記にしてコメントを求めるようなやり方だったので、個々のユーザーのホームページは、友だちの課題達成情報がツィッター画面のようにならび(ワタシはツィッターしたことないですけれど)、そこでもコメントやレスのやりとりをしなければならなくなるのです。もちろんほとんど更新情報についてはスルーすることも可能ですが、誰かがひとことコメントをし、レスを返さなければ、それでまた心配されるというやりとりがずっと続き、ワタシの場合ですと、クリノッペ友だちにアクセスし、ペットのクリノッペを突いたら挨拶、そしてご褒美をかき集めるというのが朝の日課になるほどでした。
 その間にも釣りツアーや探検ツアーのチケットは矢継ぎ早に届き、それに参加するかしないかも表明しないと、友だちから心配されることの繰り返しでした。
 それらのやりとりは、自分自身がとても大切にされているなぁと思う反面、こちらがコメントをしたのにレスがないとなると、即座に切断することもされることも可能であるという「連帯」だったのです。クリノッペや釣りなど、特定のテーマに特化し、個々のユーザーはアバターとハンドルネームの向こう側で、でも日本のどこかに確実に存在する他者との関係、それを個人的には「連帯」と呼べるようなものだと思っています。ただし、その「連帯」は異様なほど中毒性を内包して、そのゲームの世界から降りること=離脱することをなかなか許さない。
 Greeの場合ですと、TVCFでは「無料」と謳っていますが、「無料」だったらGreeの社長がアジア地域の長者番付に名前を連ねることもないわけで、実際にプレイすればわかりますが、あれこれ手を変え品を変えて、ユーザーから金を取ることに躍起です。しかも露骨過ぎるのが馬鹿正直ですが、それが通用するのもまた不思議。
 1500万人のGreeユーザーの一部が、今回のように大量のカネと時間を費やして、ケータイ端末の中のゲームの世界でのみの賞賛を集めようとする消費者の集積の一部が、今回露見しただけなのかなぁと思うのです。

 そしてその世界で賞賛を浴びる「私」となる「化身」もまた、大量のカネを投資すれば、ユーザー個々人の身体を操作するよりもより簡単に素早く、美しくなることができる。もちろんクリノッペなどのペットも同様。
 その「化身」ができあがるためにかけられたカネや労力はまったく反映されずに、永遠にその姿を穢されずに残される。

 このニュースを見て、幾つかの記事を探しているときにやっぱり思い出したのは、ワタシ自身がGreeを辞めるとき=改心したときに思ったことで、個々のゲームを一人きりでやっていたら、ここまでカネを突っ込んだりしないはずであり、突っ込むための理由は個々のケータイゲームやペット育成ではなく、それを一緒に楽しんでいて、同じように中毒性を帯びたユーザーの中での、自分の位置や地位を確保したいということなのではないだろうかと思う。
 釣りスタの旬魚ツアーなど、11時スタートで、12時にはコンプリート達成者が出て、14時には攻略法が情報交換掲示板に載るような世界において、ケータイ端末の中の話だけに閉じこめておいては、おそらくこの現象は理解できなくて、ケータイ端末をもって何らかのサイトにアクセスしている時点で、中毒化する「連帯」の一部に関与しているのだと思った方がいいし、mixiアプリでも同じような構図は散見されるだろう。
 その上で、ヴァーチャルな人間関係ということではなく、個々のユーザーにとっては、職場や家族、サークルなどでの人間関係と同じように、若しくはそれ以上の関係をGreeやモバゲー、ハンゲームなどで構築していることも理解しておかなければ、売春を斡旋した主婦が多額のカネと大量の時間を費やして、見つけようとしたものがわからないままだと思う。
 

 ということを書いておきながら、中毒化する「連帯」の一部をワタシ自身も抜け出せずに、サンシャイン牧場とハッピーアクアリウムはするのですが。

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

少なくとも阿波踊りは偏見に満ちたタームなんだな。

http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20090718/p1

に曰く、あえてタイトルに「馬鹿に付ける薬はないと申しますが」と言いつつ、馬鹿の等号として「阿波踊り」と言っています。しかも「まぁ、なんというか」というのがid:NOV1975さんにとっては、いちおう前おいているらしい。

そもそも論として、どういうことで「馬鹿」について書いているか知らないけれど、その情報も示せないで、少なくともBlogにそのような記事は出していない。そして、少なくとも「阿波踊り」をしている人は踊るときには格言として「踊る阿呆に見る阿呆、それなきゃ踊らなきゃ損損」っていう意味合いだからだと思うけれど、そういう認識すら「阿波踊り」している人たちにさらに失礼だろう。

少なくとも「踊る阿呆」になるために、踊り手達がどんだけ理性で考えて考え抜いて、その上で創意工夫しつつ、そのなかで「オリジナル」と呼べるようなものを作ろうとしているのが、まったくわからないらしい。


少なくともこういう「阿波踊り」(徳島のものなり、高円寺のものなり、そしてさまざまに伝播していくものについても等しく)は、なんら藝能としても、民俗としても、身体表象文化としても価値がないということだと言明されていることはわかりました。


なんかid:NOV1975さんの日記には、「承前」として上記のエントリーについて触れておきたいこととしてあげられていますが、エントリーは別になっているし、そもそも関連があるならその旨も明記してから書くべきであり、そもそもそのようなことがないので、「馬鹿に付ける薬はないと申しますが」(云々)「阿波踊りだよね」で通します。
主語がなにかわかりませんがね。


基本的な感想。メモ書きなら自分宛のケータイメールで自分宛に書けばいいんで、Blogに書くのは必要なくない?
なんか、何でもかんでもBlogに書いておけばオッケーってスタンスはどうかと思う。自分用のメモでも主語述語ぐらい、そして誰に読まれても良いかぐらい考えて書けば言いと思う。
そういうのができない文章が、余計な混乱を生み出すのだ。


ま、id:NOV1975さんは、阿波踊りの「男踊り」と「女踊り」の違いを習得するなり、打楽器の位置づけぐらいを学んでから「阿波踊り」ってタームを使えばいいと思うよ。

追記;
元のリンク先であれこれコメントが寄せられていた。
ワタシの質問の仕方がうまく届かず、質問に答えられていないようだった。別の方からはアドバイスなり、参考文献をご紹介頂いた。感謝致します。
あと、いろいろ考えた結果やはり
>「踊る阿呆に見る阿呆、それなきゃ踊らなきゃ損損」
という言葉は現在の祝祭なり祭礼、もしくは類似するイヴェントにおいて、パフォーマーたち、主催者達、ボランティア・スタッフたちの目線からすると、単純に「踊らなきゃ損損」という感覚では少なくともない。もちろん「踊ること」、パフォーマンスすることのみしか集中できない人たちもいるのは事実だけど。
むしろ彼ら・彼女らの言葉からは「踊っているのか、踊らされているのか」をすごく意識している。少なくともワタシが関わっているたちのなかではですけれど。とくに彼ら彼女らは、「踊っていない」時に、なにをするのかをものすごく意識している。
そういう意識のある人たちに接していると、少なくとも「馬鹿」にも「阿呆」にもなっていないし、すごく楽しみつつ、別のことも意識しているんだろうし、そうでなければならないように思う。

『SLUMDOG$MILLIONAIRE』鑑賞録からいろいろ

 本日公開の映画『スラムドック$ミリオネア』をユナイテッドシネマ豊島園で観てきた。
 たまたま朝起きて『王様のブランチ』を観ていたら、映画コーナーで同映画の特集をしていたからでもあるし、アカデミー賞で8冠だとか『トレインスポッティング』の監督作品だからとか、まったく関係がなく、近くでやっているからなぁぐらいでした。
 で、一言で感想を述べるなら、すごくおもしろかった。ジャマールの純粋さよりも、サリームの荒んでいく姿がすごくセクシーでした。あとラティカの笑顔は反則でしょう(笑)。あと、この映画単なるエンターテイメント以上に考えるところがてんこ盛り。

映画『スラムドック$ミリオネア』
監督:Danny Boyle(ダニー・ボイル
脚本:サイモン・ビューフォイ
制作:アンソニー・ドッド・マントル
編集:クリス・ディケンズ
CAST
デーヴ・パテル as ジャーマル・マリク(青年)
フリーダ・ピント as ラティカ(青年)
マドゥル・ミッタル as サリーム・マリク(ジャーマル・マリクの兄)(青年)
アニル・カプール as 『クイズ$ミリオネア』MC
イルファーン・カーン as 警部
映画『スラムドック$ミリオネア』公式サイト

 以下、完全にネタバレしています。さらに雑な分析まで始めています。


 18歳の青年ジャーマル・マリクは警察にある容疑で逮捕されて、尋問を受けていた。容疑は、あるテレビ番組での不正行為を行ったとされる。警官と警部からの激しい追求にも、ジャーマルはいっさい口を割ろうともしない。警部は、ジャーマルが出演したテレビ番組(『クイズ$ミリオネア』)の映像を見せながら、ジャーマルに尋問していく。
 なぜスラム出身で学校に通ったこともない青年が、医者や弁護士でも突破できなかった難問を次々に正解できるのか。八百長なのか、それとも運が強かったのか、それとも天才だったのか、運命だったのか。
 インド全国で一夜にして注目を浴びた青年は、ある種の賞賛とともに不正に関わった容疑者として、拘束される。そしてその尋問をおこなった警部が、ジャーマルから聞き出した正解への辿り着き方は、ジャーマルとその兄・サリーム、そして幼なじみのラティカのこれまでの歩んできた壮絶な人生だったのである。『クイズ$ミリオネア』に出演したジャマールは、ひとつ一つの質問から、自らの幼少期の体験を想起していく。
 ジャマールとサリーム兄弟はムンバイのスラムで生を受けて、母と3人暮らし。信仰する宗教はおそらくイスラム
 普段は飛行場に潜入して、友達と球技(おそらくクリケット)をして、警備員に見つかりスラム内を縦横無尽に駆けめぐる少年たちである。スラム内にある学校には制服を着て授業を受けることはあるけれど、基本的にはスラムでの貧しい生活のなかでも明るく生きている。スラムにやってきた映画スターにサインを求めるために、行った決死のダイブと、もらったサインを兄に売られたりもしたこともある。さらに、その後の人生を左右することになるスラムを仕切るギャングの存在と、学校教材のひとつとして学んだフランスの騎士道物語『三銃士』(ちなみにサリーム、ジャマール、ラティカの三人はそれぞれを三銃士の剣士になぞらえている)がある。
 そして母が亡くなるきっかけとなったイスラム教徒とヒンドゥー教徒とのスラムでの抗争から二人は孤児となり、その後幼なじみのラティカとともに、ギャングが仕切る物乞いの一員となる。
 孤児となった三人はスラムでの生活での生活を続けていく中で、物乞いたちの元締めとなるギャングが集めた溜まり場で、スラムで生き続けるために施される処置をきっかけに、溜まり場を抜け出すことを決意する。だがその際に、ジャマールとサリームは、ラティカと別れてしまうことになる。
 生き延びるためには、観光地で怪しげなガイドをしたり、盗みを行ったりすることも辞さない兄のサリームと、ラティカの生存を信じ、純粋であろうとするジャマールとの間は、少しずつ溝が深まっていくのである。

 スラム出身であり、生き延びるためにはアウトローの社会に自ら染まっていった兄・サリーム、ラティカの生存を信じ、幼き時に抱いた恋心を忘れずに生きる弟・ジャマールはコールセンターのお茶くみ係として生計を立てる反面、生き別れたラティカを探し続ける。そして、生き延びるために踊り子になり、身体にさまざまな装飾を施され、さらにギャングの中に囲われ続けるラティカ。
 青年になったジャマールは、サリームの協力で、ギャングのボスの家にいるラティカを救い出すためにさまざまな策を講ずるが、結局ラティカを救い出すことはおろか、ラティカから拒絶されてしまうことになる。それでも諦めきれないジャマールは、ある理由で『クイズ$ミリオネア』に出演することになる。ある理由のために。

 物語の軸はジャマールとラティカの恋物語になるし、そのことをおそらくレビューはそのことを中心に描かれると思うので、ここではあえて全然違う点から書いてみる。

 1) 映画の中の3つの位相
 映画の中では、ジャマールが語る幼少の時からの回想シーン、警部との尋問のやりとりが行われるシーン、そして『クイズ$ミリオネア』の収録スタジオでの回答シーンの3つの場面が入れ替わるように登場する。その入れ替わりは、次の3つの位相と対応する。
 A) スタジオ:一問一問の背景にあるジャマールの過去を想起させられ、それと一人で向かい合わざるをえなくなるシーン。
 B) 回想されるものそれ自体:幼年期、少年期のジャマール、サリーム、ラティカ。さらにそれぞれの時期に関わる大人たちによって描かれる過去そのもの。
 C) 警察署での尋問:A)ならびにB)そのものを第三者=他者(警部や警官)に語り、自らそれぞれを「過去のもの」として捉え直すシーン。
 それぞれを次のように簡略化することも可能だろう。
 A)=想起の位相、B)=過去の位相、C)=語りの位相
 
 映画の中で、それぞれの位相が最終的に重なり合いながら、A)とC)の延長線上にある現在につながる。そして最終的にはジャマールとラティカが出会うある場所につながっていく。そこは終着点でもあり出発点でもあるターミナルになるのはおそらく象徴的だろう。
 ジャマール自身のなかから浮かび上がる3つの位相は、やがて警察署からの釈放、スタジオでの最終問題、そしてラティカとの再会を経てエンディングに辿り着く先は、新たなスタート地点が設定されているのでもある。
 そしてこの3つの位相は、それぞれ「過去」を異なる形で再現しているのも重要である。つまりB)=過去の位相は、経験なり体験であり、A)=想起は、ジャマール自身の中でのことであり、出される問題の正解を導くためにはB)がなければならないけれど、それは苦痛を伴うものでもある。そしてそれはスタジオの観覧者やMCには全く伝わらないものである。唯一ジャマールが正解していった謎を共有しているのは、C)=語りの位相に居合わせた警部だけである。そして最後の問題についてはジャマールの解答の由来を知る者は、映画の中にはいないことになる。
 そしてこの映画はこの3つの位相がひとつの現在へと収斂していくプロセスでもある。 

 あと、C)=語りの位相のシーンで、類似したシーンが混入されている映画を思い出した。この映画も、ある一人の人物の語りとそれに基づくB)=過去の位相が登場する。ただし、そこで作り上げられる過去は、事実ではない。

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 2)ムンバイという都市:スラムからグローバル・シティへ
 映画の中で幼少期から少年期、さらには青年期の物語はムンバイという都市のスラムから、タージマハールという観光地とそれをつなぐ列車、さらにはグローバル・シティへと変貌していくムンバイとつながっていくなかで、ジャマールとサリームの兄弟、そしてラティカの生きる町は少しずつ変化していく。
 映画のパンフレットによれば、撮影では実際のムンバイのスラムで撮影されたとある。実際に幼少期のシーンでは、バラック空から映し出されている。そしてサリームとジャマール、ラティカはスラムという生活環境でいかに生き抜くかを幼いうちから突きつけられ、そこに順応するのと離脱するのを繰り返す。
 物乞いするためのグループに入ったり、効率よく稼ぐためにすべきことを学ぶと同時、ギャングたちが行うやり方に対して反発もする。そして同じ環境にいながら、だまされた者とそれから逃げ出した者との再会なども含められる。
 少年期には、ムンバイを離れ、「天国だ」と思ってしまう観光地・タージマハールへと流れ着く。そこで観光客相手のイカサマ的なシノギで生活を成り立たせる。その後青年となった二人は、ムンバイに戻るが、生き残るためにかつて自分たちを搾取した、そしてラティカを拘束し続けるギャングとの抗争から、犯罪集団に荷担する兄のサリームと、ラティカとの再会を求めつつも、ラティカから拒絶されるジャマール。
 かつて貧困層が集住するスラムだったムンバイは、高層ビルが建ち並び、IT産業の一大中心地として大きな変化を遂げていく過程のまっただ中にあった。そしてムンバイという都市の変化に伴い、サリーム・ジャマール、ラティカの生活する環境も変化を遂げている。
 ギャングの一員となったサリームは、工事中のビルの上位階にて、ジャマールにムンバイの変化について次のように語る。

 「この町はすでに人口が1600万人だ。かつてはスラムだった町は、今では世界の都市の中心の、さらに中心になろうとしている」

 サリーム、ジャマール、ラティカが生きてきた世界は、スラム→観光地→グローバル・シティへと変化をしていくなかで、その社会空間の変化に合わせて生き方を変えていくプロセスを含んでいる。ジャマールはIT産業やグローバルなコールセンター業務の末端であり、サリーム、ラティカは都市のギャング組織の一員である。

 3)『クイズ$ミリオネア』『三銃士』『クリケット
 そもそもこの映画で前提となるのはグローバルな文化、ならびに文化産業としてのメディアやスポーツ、フォークロアの流通も指摘しなければならないだろう。つまり映画の大前提となっている『クイズ$ミリオネア』は元々がイギリスのテレビ局が制作したものを現在では世界80ヶ国で同様のスタイルで放送されていること。さらには映画の舞台となるインド、さらにはムンバイでもテレビの重要なコンテンツになり、それが一般のニュースまで派生していることだ。そしてこの映画が配給されるそれぞれの国や地域でも『クイズ$ミリオネア』は存在していることが前提となっているだろう。
 そしてこの映画の中でそれに類似する文化は、おそらく『三銃士』と『クリケット』。さらには観光地としてのタージマハールもあげられるだろう。またそれに付随して、盲目になった少年が、100アメリカドルの紙幣に描かれている肖像を憶えているシーンがあるが、紙幣のデザインがグローバルに流通するデザインとなっていて、それが問題のひとつになることも忘れはいけない。もう一つアメリカ由来の文化的なアイテムもある。
 この映画の中でテレビというナショナルかつグローバルなメディア、さらにはコンテンツや、文化としての「クイズ」、さらにはその問題に引用されるさまざまなコンテンツは、特定のローカルな文脈でもある生み出されるが、それ以上にグローバルなコンテンツからピックアップされる。そして『クリケット』のように、それがメジャーな地域と、日本のようにマイナーな地域では温度差が存在していないだろうか?

 実際にクリケットの最多「センチュリー」(一人で100点とることの意)世界記録達成者に関する問題が出たんだけれども、正直ワタシにとってクリケットのルールすら知らないので、どういう記録なのかもわからなかったし、そもそも「センチュリー」の意味すら調べてからじゃないとわからなかった。
 またジャマールは、テレビ出演とその正解率の高さによってメディアの注目を集めることになる。異様なほどの盛り上がりと、その後の落差はいったいなんだろう?とちょっと思ったりもした。
 
 そして映画の内容とは全く関係ないけれど、『クイズ$ミリオネア』のスタジオシーンを観ていたら、思い出したのは、Rage Against The Machine

 ダラダラと書いて、まとまりがつかなくなりましたが、映画そのもののについてはとてもおもしろかったです。一部ちょっとドン引きしてしまうような描写があったり、暴力的だと思われても仕方がないかなぁと思うシーンがありますが。素直におもしろかったです。
 でも余計なことを考えながら観ると、ストーリーそのものに集中できないかも。
 個人的にはジャマールよりも、サリームの方に見入っちゃいました。マドゥル・ミッタルがセクシーすぎます。

 続きは、本文中で言及した文献やら映画やらです。気になる方だけチェックしてみてください。
 1)について

アクティヴ・インタビュー―相互行為としての社会調査

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過去と記憶の社会学―自己論からの展開

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自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

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 2)について
Planet of Slums

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The Tourist Gaze (Published in association with Theory, Culture & Society)

The Tourist Gaze (Published in association with Theory, Culture & Society)

グローバル・シティ―ニューヨーク・ロンドン・東京から世界を読む

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 3)について
クイズ文化の社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

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三銃士〈上〉 (岩波文庫)

三銃士〈上〉 (岩波文庫)

三銃士〈下〉 (岩波文庫)

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さまよえる近代―グローバル化の文化研究

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有名性という文化装置

有名性という文化装置

wrote 2009.4.18

ソーキと三枚肉、さらにポーク(=porkではなく)、さらに豚肉

 まずはこちらからお読み下さい。
 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090513/1242240426
 http://d.hatena.ne.jp/alice-2008/20090513/1242220596

 いわゆる「豚」という日本語に対して、訳される英語の単語について「swine flu」なのか、「pig flu」か「hog flu」かということが述べられている。
 英語についても、そもそも日本語で食用で「豚」と称されるものについてはあまり詳しくはないけれど、ふと、id:alice-2008の日記でporkという言葉にちょっと別のことを思い出したので、まったく関係のないことかもしれないけれど書いておきたい。

 ワタシが生まれ育ち成人する前まで育ったとある地では、厳密にではないかもしれないが、その地に住んでいた人々は、一般的に「豚肉」と呼ばれるものと、「ポーク」と呼ばれるものは分けていたと思われる。
 簡単に言えば、「豚肉」は屠殺されてのち、食肉加工会社でスライスされたりしたもので、スーパーかどっかで真っ白な発泡スチロールに載せられていたり、そば屋(必ずしも「蕎麦屋」ではない。←ここ重要。そもそもワタシが生まれ育った故郷には「蕎麦屋」はない(絶対的な断言です))の三枚肉やソーキになったりするものだ。
 そして「ポーク」と呼ばれるものは、基本的にアメリカ産と思われていたと思うのだが、実はスウェーデンデンマーク産の缶詰の豚肉をミンチにして、保存食として使っていたものを指していた。この辺は戦時下の食文化論ですなぁ。

 かなり恥ずかしいことを書くけれど、ワタシが生まれ育った故郷には、いわゆる寿司屋とラーメン屋がないところに生まれ育った。今は違うかもしれないが。おそらく、亜熱帯の海に育って、何らかの因果か黒潮の中途半端なところで捕まえられた魚だったり、醤油ベースも豚骨ベースもないのんべんだらりとしたラーメン屋もない地域に生まれた人間としては、ラーメンというのは、インスタントラーメンだったりする。実家で父親が土日に作っていたのは「チャルメラ」の袋麺だったんだけれども。
 そしてその際に「ポーク」をトッピングするということをいったときに出てきたのは、「チューリップ」の「ポーク」だった。そもそもだけど、父親の中で「三枚肉」や「ソーキ」をトッピングする発想はなかったと思われるのだが。
 サイコロ状に切られた分厚くて、異様に歯ごたえのある「ポーク」は、どこのラーメン屋にもない、というかありえないトッピングだったように思えて仕方がない。そもそも袋麺のラーメンもどきを作る父親を責めるつもりはないけれど。

 それにしても、今では「日本」のとある地域の一部としてカテゴライズされる場所で「豚肉」と「ポーク」はまったく違う扱いをされているのもちょっと面白かったりするし、あとその「ポーク」でいえば、その缶詰のラベルに「Spam」とあったは興味深いんですよねぇ。
 いわゆる、ジャンクメールに対して「Spam」という名称が、現在でもトラブルのネタになっているらしいし、ある、お世話になった高名な研究者によれば、そもそも不要な部位をミンチにして缶詰にしてそれを商品化したからって、某大学の講義で喋っていたけれど、本当かな?
 see : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%A0

葬儀での撮影、さらに「焼き増し」?

 はてなではだいぶお久しぶりに書きます。mixiで書いている「コンビニ」バイトシリーズの第28回目です。

 先の日曜日の夕方のバイトにて。
 ある女性のお客様が、角A2型の封筒を持って、カウンターの前に立っていた。
 店にある商品は持たなくてもレジに立つお客様は結構いる。
 タバコに缶コーヒーにソフトクリーム、さらには宅配便などなど。

 でも今回のお客様はなんかいつもと違う雰囲気で、ワタシの前に立っている。
 なんか申し訳なさそうに、封筒から中身を取り出す。
 黒い厚紙(画用紙みたいなそれ)に挟まれた一枚の写真を差し出して、ワタシに尋ねる。

 「あの〜、この写真、そこのコピー機でカラーコピーできますか?」

 バイト先のコピー機は、モノクロ片面のみでしか使えない。FAXやらチケットなどの機能もない。ごくありふれた普通のコピー機なのである。
 そもそも基本的に、あるスーパーチェーンの末端に加盟しているので、細かいことまでできるわけがない。

 そういう理由で、ワタシは、
 「あの〜、コピー機はモノクロで文字だけで、写真はできないんですよ。」
 と答える。すると、

 「このお店は写真もやっていますよね?焼き増しってできないんですか?」

 いちおう写真のプリントアウトも憶えなければいけない業務にあるけれど、基本的にはデジタル記憶媒体もしくはアナログのフィルムなどの現像を受け付けるのみで、現像そのものは外部に委託しているのみで、持ち込まれた写真から焼き増しなどできない。

 「写真は、基本的に記録しているフィルムやSDカードなど保存媒体がないとダメなんですよね。写真から焼き増しっていうのはできないと思うんですけれど」
 
 と、その時に始めて、黒い厚紙の中身の写真を垣間見た。
 

 その写真は、ある葬儀の遺影と祭壇が映し出されている写真だった。

 
 エッ(@_@;)?、エッ(・_。)?(。_・)?

 お葬式の時に、故人の遺影と祭壇をこの女性は撮影したんだろうか?そしてそれを「焼き増し」する?
 黒い厚紙の理由はわかったけれど、それ以上にお葬式や告別式などの場面において、遺影と祭壇をファインダー越しに眺めるのって、この女性が行った結果なのか?それとも第三者が行ったことなのか?
 まったくもって、混乱してしまう。まるでメダパニをかけられるとこういう状況になるのかと思うくらい。対面的には冷静だったと思うけれど、目の前で起こっている現状がまったく自分とはかけ離れた出来事のように思われた。

 事情を説明してのち、そのお客様は、角2型の封筒に写真を戻し、何も買わずに、店をあとにした。なんか少し申し訳ないことをしたなぁと思った。
 
 ワタシ個人でも告別式や通夜、お葬式に出席した経験は少なからずあるけれど、喩え身内のそれであったとしても、遺影と祭壇を写真撮影するのは聞いたことがないし、観たこともない。
 一瞬、「ログ化する個人の有り様」なんてことは浮かんだけれど、まさか個人のブログ用で撮影し、「今日は身内の葬式に行きました。その様子です♪」なんてエントリーはありえないだろう。
 そして、そもそも通夜なり告別式なり葬式で、堂々とカメラ撮影をするのはどーなんだろう?っておもったりもしたけれど。そういえば、sumita-mさんが、お葬式の場で記念撮影するということに言及されていた。

 see : http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090212/1234410059

 一瞬、sumita-mさんの恩師さんと同じように「誰が葬式で記念写真なんか撮るか」とも思ったけれど。パートナーにその話をしたところ、「そういう機会にしか、親戚一同が集まることがないからね。」との返信を頂いた。
 たしかに、身内の葬式の場で、数年来合わなかった親戚と久々のご対面なんてのもあったしなぁ。でも記念撮影の時に「笑顔」になるような合図をするのかどうか、はたまた、親戚一同で暗い顔した様子をフィルムなり記憶媒体に焼き付けるのかどうか。そもそもそういう場面に遭遇したことがないのでよくわからない。
 そもそも何を「記念」するのかがイマイチピンと来ない。

 なお、まったく別のことかもしれないけれど、フィールドワーク先で、とある商店街もしくはある町会のメンバーが亡くなったお葬式のことの話になって、関係者は焼香が終わったあともそのまま斎場でみんなで飲み続けて、祭の打ち合わせをするんだということを聞いて、かなりビックリしたことがある。葬式が4時間以上になって、誰も斎場から帰ることはなく、ダラダラと呑み続けるのだとも言っていた。
 たしかにそうでなければ、主要な祝祭の実行委員が一同に会しないというのもあるけれど、喪服姿で酒を煽って、祭の打ち合わせって、なんか祭礼と儀礼ってリンクしているのか切断されているのかよくわからなくなる。

 なお、その前の週にあるスナックでたまたま居合わせた、葬儀とその関係者さらにはなぜか『初恋のきた道』についてはLivedoorBlogで書いていた。
 『初恋のきた道』では、死者への哀悼の意を表する行為は、棺を担いで斎場から故人の自宅まで練り歩くことであったのを思い出す。
 see : http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/50921240.html

 いくらフィールドワーカーであり、関係者であっても、葬儀や通夜の席でカメラ構えるのはむずかしいよなぁ。その人とどれだけ懇意になったとしても。

 あと、上記のsumita-mさんのエントリーのコメント欄にて

 「>誰が葬式で記念写真なんか撮るかと先生に言われた。
撮りますよ。我が家に何枚もありますし。」
 というコメントが寄せられていた。

 (@_@;)?よくわからないけれど、そういう葬儀の写真は保存して、第三者に閲覧可能な状況にしておくべきものなの?