東京マラソンとボランティア高校生

 昨日は東京マラソン2009が開催されました。今年で3回目ですが、既に参加希望者が多すぎて、ほとんどの希望者が走れなかったとのことをどこかで聴いた。さらに去年は日本テレビ系列のアナウンサーが走って、今年はフジテレビ系列のアナウンサーが走っていたとか。終いには『プロジェクトX』みたいな東京マラソン開催までの経緯についてドラマ仕立ての番組が放送されていたりもしていた。少しだけ視ましたが、東京マラソンプロジェクト担当者が「一人でも多くのランナーを完走させてあげたいから、交通制限時間を7時間にしてくれ」と警視庁担当者と、新宿かどこかの居酒屋で訴えたんだとか。
 あとそのドラマで東京マラソンのモデルが、ニューヨーク・シティ・マラソンだということをしった。

 さて、東京マラソンについては、大都市で行政が仕掛けた大規模都市祝祭的イヴェントですね、ぐらいにしか思っていなかったんですが。
 2年前のエントリーで以下のような記事を書いていたことを、2日前にもらったコメントで思い出す。
 http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/50280574.htm
 以下、そのまま貼り付け;

 §

 久しぶりにnewsにコメント。
最初は宮崎県清武町での養鶏の大量死について書こうかと思ったが、まだ鳥インフルエンザとは断定されていないので、間違ったことは言えないと判断。
とりあえず、鳥インフルエンザ発生かどうか鑑定中の話をネタに日記を書かれている人は、どうも人間が感染するインフルエンザと、鳥インフルエンザをごちゃ混ぜにしているようだ。
「焼酎で消毒すれば」とかいう話もあった。

さて本題。
引用にあたり、数字は半角英数に変更済み。一行開けは削除。
都立高「奉仕」科目に動物園の解説、富士山ごみ拾い…より;

都立高「奉仕」科目に動物園の解説、富士山ごみ拾い…
 東京都の都立高で今春から新設される必修科目の「奉仕」について、全都立高207校(全日・定時・通信制計282課程)の授業計画が11日、まとまった。社会から必要とされる活動体験を通じ、生徒の職業意識を高める狙いで、都教育委員会によると、都道府県単位で奉仕活動を必修化するのは全国で初めて。
 青梅総合(青梅市)の定時制は、栽培した草花をドライフラワーや花かごに加工して福祉施設に贈ったり講習会を開いたりする。前身の一つが農林高で、園芸の授業に力を入れているため。多摩動物公園に隣接する南平(日野市)では、生徒が子供向けに動物の生態などを解説するボランティアに挑戦する。
 上野忍岡(台東区)は下町の土地柄を生かし、高齢者に贈る根付けや祭り用のはちまき、手ぬぐい作りに協力。栃木県足尾市での植林に加わる光丘(練馬区)や、富士山でのごみ拾いをする青山(渋谷区)のように、地域にこだわらない活動をする高校もある。
 一方、忍岡(台東区)や立川(立川市)など5校は、都が大量の運営ボランティアを動員する「東京マラソン」への参加を予定。地元商店街や公園の清掃に充てる高校も多く、カリキュラム作りに苦心している実態もうかがわせている。
(2007年1月12日1時3分 読売新聞)
もちろん、高校の必修科目として「奉仕」が採用されたとしても、それを授業としてやるのはどーなんだろうという反論がでるだろう。
このニュースを引用している方々も、まず第一に「奉仕」という自主的な、あるいは主体的な行動ではなく、授業の1つとして「受動的」に「奉仕」しなければならないという環境をつくったとしても、果たして「奉仕」と言えるかどうか、また「ボランティア(volunteer)」という言葉の趣旨から反するのでは、というものがある。

私もこの記事を読んだときに、「奉仕」という授業を受ける生徒たちは、「必修科目」の1つだから、メンドクサイけれど単位足りないし、卒業できないとやばいよねぇという心境でやらされるのかと思う。
もちろん都内の高校生すべてが、みんな「受動的」で「メンドクサイけれどって」とは思わないけれど。私が高校生だとしたら、言われたことならやるけれど、積極的に授業を履修しようとは思わない。
ついでに言えば、都内から離れて作業する場合(たとえば富士山のゴミ拾いや、動物園での解説など)は、ちょっとした遠足か修学旅行気分かも。行ったことない場所なら、ボランティア活動よりも、課外以外の観光とかが楽しそうってなると思う。

と、生徒側からの視点で書いてみた。だがこの問題は教員側と、ボランティアを要請する側・ボランティアを受ける側というほかの3者の視点を入れないと、達成できないと思う。
第一に、教員側にとって「奉仕」という必修科目は、教員免許で学んだことではないはず。これから教育系の大学で「奉仕」ということを専門に教える大学教員がいるとはとうてい考えられない。
つまり学校という知の体系において「奉仕」というのは、教える側にとってこれまで学んだことのないことをやらせようということになる。
さらにいえば、都内の高校生が富士山のゴミ拾いをしたとすると、その間の移動や宿泊先、さらには地元の関係者への連絡など「奉仕」の時間以外にやるべきことが増えるだけだ。
しかも移動費や宿泊費、また諸経費は誰が負担するのか?
「奉仕」活動である以上、生徒たちが行った活動は金銭に還元されない。「奉仕」活動を実施するために、授業料の中から積み立てなり、授業料上乗せなんてことになりかねないと思うんだけど、どうなんだろう?
ついでに言えば「奉仕」というものをどのように評価するんだろう?ゴミの量や、動物についての深い造詣を蕩々と語れましたってことなのかしら?

第二に、ボランティアを要請する側にとっては、「奉仕」の必修化は何をもたらすんだろう?
もちろんボランティア活動を必要としている人たち、地域、団体は数多くあるだろう。ただそれらが、高校の授業におつきあいするのだろうか。もちろん「地域貢献」や「労働意欲の涵養」「ボランティア精神の育成」なんて美しいお題目が出てくるかもしれないが、それを目的にやってくる学校関係者や生徒はどれくらいいるんだろうか。
それは第三に、ボランティアを受ける側にとっても、ボランティア活動をしている人たちが主体的な意欲に基づくものではなく、あくまでも「やらされている」ということになりかねない。
ただでさえ、ボランティア活動をする側とされる側の関係が、いろいろ問題含みのこの時期に「奉仕」というものを強制させたところで、どの立場から考えても損することはあっても、得することはないように思う。
また「奉仕」という受験に関わらない科目でまた未履修問題なんて出てきたらシャレにならないと思うが、いかがですかね。

最後にこのニュース本文で気になった一言;
「社会から必要とされる活動体験を通じ、生徒の職業意識を高める狙いで」
え?これって職業訓練の一貫なんですか?「奉仕」と「労働」がごちゃごちゃのような気がする。

そういえば、ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』の原著名は”Learning to Labor"だったね。
「職業意識を高めたものは、学校への反抗だ」というのが趣旨だったと思うが、中途半端にしか触れていないから、読まないと。

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

 (2007.01.12)
 §

 それで実際にボランティア活動に参加することになった高校生から以下のコメントを頂く。

現役の高校生で、2009年東京マラソンにボランティアとして『奉仕』参加する人間です。
百人強の生徒が私の学校からは参加しますが、半分真剣、半分は強制されて単位取るためにという雰囲気です。ただでさえ、参加者最初足らなくて、高校二年生が説き伏せられて五十人近く参加した形なので……
明日のボランティア参加で、色々悪い結果にならないか心配です。去年のボランティア感想の中には、酷い都立高校生の態度がちらほらありましたので。
東京都……高校生とはいえ、自発的に『奉仕』させない限り、いろんな組織に多大なる迷惑と、思わせなくてもよかった悪影響が及ぶので、もう少し時間をかけて必修科目にすべきだったと思わずを得ません。

 まず頂いたコメントの文章の上手さにびっくりした。私が高校生だったとき、こういうきちんとした意見を述べられていたか甚だ疑問。
 そしてすでに東京都内の公立高校ではこういう「奉仕活動」が必修化されているのか。全く知らなかった。それにしても現場で活動するボランティアの実態ってこういうものなのかなぁ。それにいくら「奉仕活動」がカリキュラムの一部であったとしても、休日にそれを名目に集めるのは、問題はないのだろうか。そもそもボランティアが自主性・自発性によって活動するならば、その人がしたい「奉仕」をすればいいだけの話かとも思ったりする。ボランティアもなんか修学旅行みたいにみんなで一緒でするっていうのも、ちょっとどうかと思う。

在留外国人と管理(メモ)

『読売新聞』の2009年2月17日付記事を二つ;

外国人の不法残留者11万人、5年で半減をほぼ達成
 法務省は17日、今年1月1日現在の外国人の不法残留者数は11万3072人で、前年より3万6713人(24・5%)減少したと発表した。

 政府が「不法滞在者5年半減計画」をスタートさせた2004年の不法残留者数(21万9418人)からの減少率は48・5%となり、同省は「目標はおおむね達成できた」としている。

 不法残留者の減少は1994年から16年連続。今回の減少率は前年(12・3%)の2倍近くに達した。法務省は「07年11月に導入した生体認証(バイオ)審査が奏功した」と分析している。国籍別では韓国の2万4198人(21・4%)が最も多く、中国1万8385人(16・3%)、フィリピン1万7287人(15・3%)と続いた。

 一方、08年に出入国管理・難民認定法違反として強制退去手続きとなった外国人は3万9382人。空港などの入国審査で日本への上陸を拒否された外国人は前年比31・0%減の7188人で、5年ぶりに1万人を下回った。
(2009年2月17日10時43分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090217-OYT1T00300.htm

外国人に「在留カード」…偽造行為に罰則、国が一元管理へ
 政府が今国会に提出する出入国管理・難民認定法改正案の概要が16日、明らかになった。

 中長期に日本に滞在する外国人に対し、身分証となる「在留カード」を法相が発行し、在留管理を国に一元化する。これに伴い、市区町村が発行している外国人登録証明書は廃止する。カードの偽造行為には懲役刑や強制退去処分の罰則規定を設ける。

 カードには氏名や生年月日、性別、国籍、住所、在留資格、在留期間を記載。勤務先や住所などに変更があった場合は、入国管理局に届け出ることを義務づける。

 「特別永住者」と呼ばれる在日韓国・朝鮮人在留カードの対象から外し、新たな身分証明書を発行する。原則3年が上限の外国人の在留期間を5年に延長することも盛り込んだ。
(2009年2月17日03時22分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090216-OYT1T01221.htm

 この入管法の改正については、本当はきちんと調べなきゃいけないんだけれども、1990年の在留資格改正と同じくらいインパクトあるのかな?
 cf.出入国管理及び難民認定法

 上記の記事とは直接は関係しないのかもしれないけれど、自分のメモでつらつらと「在留外国人」の話題で書いておく。昨日、たまたま『クローズアップ現代』(NHK)を視ていたら、インドネシア介護士の話をやっていて、インドネシアでは看護師の資格を持っている若年層をリクルートして、日本の地方の介護施設に「介護士」の研修生として勤務させるという話だった。3年間の「研修」期間に、現場の介護士として勤務する一方で、国家資格を一回の試験でパスしなければ、日本に在留することはできないんだって。
 だが実際に介護士として働いている人たちは自分の看護師としてのスキルを生かす仕事をさせてもらえず、慣れていない介護の現場であり、異国である日本での生活に適応するだけでも苦労するのに、日本人ですら半分しかパスしない国家資格を取らないといけない状況に追い込まれる。さらに受け入れ側の施設は、日本人介護士が不足し、離職率も高い現状では、外国人介護士の存在がなければ、介護施設そのものがつぶれてしまうということで、なんとか外国人介護士をうまく適応させるために努力せざるを得ない。その一方で、政府(ここでは厚生労働省)は「外国人労働者」を認めるわけには原則いかないので、あくまでも外国人介護士は「研修生」として一回の国家試験でパスしなければ、在留もさせないってことになっている。しかも外国人向けの試験とかそもそも考えていないようだし。
 
 さらに日曜に放送された『沸騰都市シンガポール篇は、途中から視たので見直しますが、たしかフィリピンからのハウスキーピングしている女性たちは、毎月妊娠しているかどうかチェックされるとかいうことも、将来的にはつながるのかなぁと思ったりした。
 もちろん、1つ目の記事にある「不法在留」している外国人の減少は、全体的にみたらよいことかもしれないが、「不法在留」=犯罪者という安直な図式には必ずしもならない事例が数多く出ているのもまた事実。
 グローバリゼーションがどの国家も受け入れざるを得ない結果、国際的な人的移動が増大するなかで、国家がいかに移民を管理していくのかが、おそらく重要になるのは間違いないし、単に外国人排斥を訴えたところで家族の再生産が起こってしまえば、彼ら彼女らの処遇については考えざるを得ないし、地域社会だってどのように外国人と折り合いをつけていかざるをえないし、実際に同じ労働者だったりするわけでもあるんだよね。
 あ、やっぱり『沸騰都市シンガポール篇とロンドン篇見直さなきゃ。
 そしてこの「在留外国人」の「管理」に関する問題が、1960年代の東京においては地方出身者への施策との関係も気になったりする。そもそも映画『Always 三丁目の夕日』に出てくる女性たちは地方出身者で、青少年対策課が担当する「社会問題」のネタのひとつにあげられてもいたんだよね。

ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

  • 作者: ジョックヤング,Jock Young,青木秀男,伊藤泰郎,岸政彦,村澤真保呂
  • 出版社/メーカー: 洛北出版
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 単行本
  • 購入: 4人 クリック: 56回
  • この商品を含むブログ (52件) を見る
都市同郷団体の研究

都市同郷団体の研究

越境する雇用システムと外国人労働者

越境する雇用システムと外国人労働者

グローバル・シティ―ニューヨーク・ロンドン・東京から世界を読む

グローバル・シティ―ニューヨーク・ロンドン・東京から世界を読む

「夕凪の街 桜の国」鑑賞録

夕凪の街 桜の国 [DVD]

夕凪の街 桜の国 [DVD]

 以前に知人のくまさんより紹介されていた映画です。ようやく観ることができました。

 物語は「夕凪の街」編と「桜の国」編とに分かれていますが、ある家族の世代を超えた物語としてうまくまとめられていて、それぞれがバランスよかったです。

 「夕凪の街」の舞台は、1958(昭和33)年夏の広島。原爆投下から13年が過ぎ、広島の街を流れる川(おそらく太田川)沿いのバラック地帯に住む26歳の平野皆実(麻生久美子)は、小さな建築会社で事務の仕事に就いている。家族は同居している母のフジミ(藤村志保)、水戸に疎開したまま叔母夫婦の養子になった旭(伊崎充則)。そして戦死した父と妹の翠。
 
 物語は皆実が職場の同僚で営業係の打越豊(吉沢悠)に心惹かれていくところから始まる。打越も皆実のことを気にかけているが、皆実は最後の最後で打越の思いを受け取ることをやんわりと拒絶するのである。その理由は彼女が原爆被爆者であり、戦争で亡くなった家族(父と妹)への申し訳のなさから、自らが幸せな世界へと踏み込むことをためらっている。だが打越は爆心地よりも離れたところで終戦を迎えたために、彼女が被爆者として、そして戦争の生き残りとしての葛藤を理解することがなかなかできずにいたのである。
 皆実の住む川沿いのバラックは戦後、生き延びた被爆者たちがスクォッティング(squatting:無断占拠)でつくられた形跡があり、そこに集まって住む人たちのほとんどが被爆者である。そして皆実は、「みんな誰もそのことについて何も言わない」とまで思っている。つまりこのバラックに集住している人々が、一般の人とは違うということを自覚しつつも、それについて誰も何も言わないのである。
 皆実の住む集落は、被爆者であり生存者たちが、川沿いというきわめて劣悪な場所で寄り添って生きており、打越や皆実の同僚たちは、市の中心部からある種排除された人々が寄り添う集落へ出かけていくことになる。また皆実は逆に、排除された側の集落から、市の中心部へと行くことになる。その時に皆実は彼女自身の体験やトラウマをなるべく晒さないように振る舞いながら。それはさりげない小道具で示されている。
 物語の後半では、打越の思いに答えようとしつつも、生存者として「生き残ったことへの申し訳なさ」を抱える皆実が、自分自身の生を打越に問うていくのだ。打越が皆実の思いを受け入れたとき、被爆から13年後の皆実は原爆病を発症してしまうことになる。
 そして高校生になった弟の旭との再会ののち、皆実は亡くなってしまう。

 「桜の国」の舞台は、平成19年の東京(おそらく国分寺市西武新宿線沿線「恋ヶ窪駅」が出てくる)。28歳の石川七波(田中麗奈)は都内に住む会社員。家族は父の旭(堺正章)と研修医の弟の凪生(金井勇太)。母である京花(栗田麗)と、祖母のフジミは小学生の時に原爆病にて死去している。
 定年退職した父の旭が最近になって、不審な行動をとったり、通常ではあり得ない電話料金を支払っていることから、父を認知症などの痴呆が始まっているのではないかと疑い始めている。ある夜、旭がこっそり家を抜け出してどこかへ出かけていくことを尾行していくと、恋ヶ窪駅にて小学校時代の同級生で、凪生の恋人であり、看護師である東子(中越典子)と出くわす。二人はそのまま旭を尾行することになるが、旭の行く先は広島であった。
 そして父の尾行を小学校時代の同級生とするという奇妙な旅のなかから、七波は自らの家族の過去を追憶していくことになる。父の旭が会っていくのは、叔母である皆実にまつわる人たちであり、ほとんど面識のない。父も母も祖母も語りたがらなかった物語である。そして七波は自分自身のなかにも多くを語りたくない物語があったことに気づいていく。
 それらは幼少時代を過ごした東京都中野区松が丘での記憶であり、母の京花と祖母のフジミが自らは全く知らなかった「原爆」の被害者であり,それによって亡くなってしまったことについての記憶である。
 父を尾行することから始まって、亡くなった家族の足跡をたどっていく旅のなかで七波は自らの身体に付された過去を受け入れていくことを確認することになる。


 さて、この映画を観てからしばらくして、2冊の本のことを思い出した。
 一冊目はマイク・モラスキー著『占領の記憶・記憶の占領』
 

占領の記憶/記憶の占領―戦後沖縄・日本とアメリカ

占領の記憶/記憶の占領―戦後沖縄・日本とアメリカ

 もう一冊は、マリタ・スターケン著『Tangled Memories』→『アメリカという記憶』
Tangled Memories: The Vietnam War, the AIDS Epidemic, And the Politics of Remembering

Tangled Memories: The Vietnam War, the AIDS Epidemic, And the Politics of Remembering

アメリカという記憶―ベトナム戦争、エイズ、記念碑的表象

アメリカという記憶―ベトナム戦争、エイズ、記念碑的表象

 何を思ったかを端的に示せば、被害を纏わせられる身体としての「女性」についてだった。この物語の主人公である二人の女性(皆実と七波)はいずれも傷を負っている。ただし、七波は皆実のように身体的な外傷を受けているわけではなく、あくまでも普段は市井の女性として描かれている。彼女の受けた傷はむしろ個人の内面に残された「原爆による被害者」としての母と祖母を受けきれずにいたということである。皆実の場合は実際の被爆のサバイバーであり、サバイブしたことによってさらにその「被害」というものは大きくなっていくのである。そしてこの物語に出てくる多くの女性、フジミにしろ、京花にしろ、いずれも「被害」というのが様々な形で示される。フジミの場合は被爆直後に目が腫れてしまったことにより、サバイバーでありつつも現場の状況を見なかったこと、京花の場合は生まれてすぐに被爆したことによる認知障碍などがあることが示されている。
 そして対照的に男性たち(打越にしろ、旭にしろ)は直接的な意味での「被害」を被っているわけではない。むしろその「被害」を受け入れる存在として描かれていく。『桜の国』に出てくる凪生がむしろ例外的にそのつきあっていく異性との関係が逆転する。受け入れる側は東子であり、凪生は「原爆2世」として「被害」を受けていると描かれる。そして東子の場合は凪生とつきあっていくことを周囲から非難されることによって間接的な「被害」を受けることにもなるのだが。その間接的な被害を受け入れることが求められるのは打越にも旭にも共通するし、七波はもっとも色濃くその影響があるように思われる。

 そしてこの物語が描いている様々な「被害」がある種の変容を起こしているだけの時間の長さがあるように思う。実際物語のなかで原爆が投下された時の情況は、様々な人々の語りや身体に刻印された傷によって物語られる。さらには太田川の原爆スラムとそこにたてられている「不法占拠禁止」の看板、そして現代における「被爆2世」と呼ばれる七波や凪生という存在。時間が経過することによって「被害」は目に見えて、囲い込まれるものから、個々人の内面のトラウマや言われもない偏見やスティグマへと変わっていく。そしてそれが直接的には個人の先天的なものによって与えられていくプロセス、京花のような生まれた直後に被爆した者、さらには家族の一員が被爆者であるケースなど。
 さまざまな「被害」とそれぞれがそれに向き合っていくプロセスが映画のおもしろさであり、悲惨さとは違うところから浮かび上がっていくのである。
 書いていて、少しまとまりが悪く、どういうことで閉めようか正直迷っていますが、マリタ・スターケン著が示したように、それぞれの国家なり地域に埋め込まれたさまざまな記憶や被害が新たな物語の源泉になることは多々あるとしても、それがスターケンやモラスキーが示したような、幾重にも描かれ、メモライズされる時に、その記憶や被害についてどのような立場をとることが可能なのかとも考えた。「歴史的真摯さ(historical truthfulness)」について議論していたテッサ・モーリス・スズキの著書が頭に浮かんできた。

過去は死なない―メディア・記憶・歴史

過去は死なない―メディア・記憶・歴史

(2008.12.09)

noiseと舞台

 唐突ですが、ある種の作品を作るとか、その作品を受け取るかということに直面したときに、感覚的に合う/合わないみたいなものがあったとするならば、その「感覚的に合う/合わない」というものはなんだろうか?と思ったりしました。

 「感覚的に合う/合わない」というものがあるとすれば、おそらくそれは「前提」とか「予測」がついたり、それに合致したりする類のものかもしれないなぁと思ったりします。
 いい意味での予想外と、悪い意味での予想外ともありますが、感覚的なものというのは、当事者である人間にとってもある種、心地好いか/そうではないかは判断できるほどの言葉がないように思ったりもするので、タチが悪いです。

 さてタイトルにつながりますが、個人的に心地の良いものとか、「これっていいなぁ〜」と思うのは、おそらくnoise(雑音)なるものが混入されているのかと思ったりします。

 先日、相方から知った「つけナポリタン」のことで、地域活性化と名物料理を、テレビ東京の「チャンピオンズ」にて放映された云々の経緯を知り、それについて一応批判的なスタンスからコメントしたことがある。そして現在、Googleで調べてみると、「つけナポリタンの街」だからということだけで一人歩きしている感が否めないんだよね。
 see : 「 つけナポリタンの町にもの申す!! 」(http://plaza.rakuten.co.jp/LaMiaVitaComeVa/diary/200810230001/
 こういう記事がgoogleの一件目に出ている時点で、ちょっとおい、もうちょっとどうにかしろよと思ったりするのです。
 also see : http://orz.fujiblog.jp/?eid=841814,http://plaza.rakuten.co.jp/tonbee/diary/200810150001/


 そんで、この「つけナポリタン」云々以前に、まったく別のジャンルからこのタイトルは冠されているんですが、特定のものを取り上げる、そしてその特定のものを目立たせるときに、必要なモノが圧倒的に欠けているのではないかと思ったわけです。
 それがnoiseであり、舞台だと。


 そもそも論として、noiseは雑音であるよりもBGMのようなものだとこの文脈では使います。
 「雑音」になるためには「雑」になって、疎外なり邪魔になるための不快感を喚起しなければならないからです。でもよくよく考えると、感覚的にnoiseはBGMのように環境としてあるわけです。そしてそれがある程度存在しない場所におかれたならば、それは不愉快と感じられるための、聴いていないし、聴こうとしない音楽として存在するわけです。

 B1グランプリみたいな話と、それとはまったく違う分野からの話で切り込みますが、そもそも論としてさる文化が膾炙されるためには、ある程度のnoise的、さらにはそれを包含するような舞台が必要であると思ったりします。


 私が「つけナポリタン」について、ある種否定的だったり、これから都内の御輿は全てにおいて神社を落とすことがあり得るのと、AV業界においてS1というのがかつてのh.m.p.と同じ袋小路に陥っているのは、端的に言えば、同じようなロジックに嵌っているだけだと思ったりしているのと繋がる。
 
 noiseとは、逸話といっていいかもしれない。
 そもそも焼きそばにそこまで思い入れが必要かどうかわからない。「宇宙少女」は後のキャッチコピーで「宇宙少女」を売り出すほどの美しさは兼ね備えていなかったし、その後のh.m.p.がむしろ美少女路線をつくるために、「純粋培養」的な女性像を作るために作品内部に一定空間の閉鎖性を志向していたのは明らかだし、S1等のメーカーは基本、その同じ「閉鎖性」と女優のネームバリューのみで勝負している、という意味でのワンパターンの再生を繰り返しているにすぎない。
 そしてnoiseと舞台は限りなく脱色されて、脱空間化、脱個人化されるために仕向けられるように思えたときに、その欠如が如実に示されている。
 街興ししたいのにもかかわらず、「完売」というある種、売り手としては屈辱的な看板を出したにもかかわらず、メディアで取り上げられているから、って。

 私個人的には、どこかのメディアに取り上げられましたのでは、おそらく沈没するのは間違いいないし、S1だって、つぶれにないために看板となる女優を取っ替え引っ替えしているだけだろうと思ったりする。

 単純にいえば、ある種のロールモデルは、noiseと舞台があるものだけだということだ。
 メディアに取り上げられました云々や、看板の付け替えだけで何とかなるのではなく、むしろ必要なのはnoiseであり、それを喚起させる物語である。そしてその時に重要なメッセンジャーとしての、メディアや社会科学者などではなくて、それを引きつけるだけの物語であり、noiseにともない、そしてそれを舞台として作り上げ行くための仕掛けなのだと。

 この意味でもっとも参照されるべきは、別の物語がありつつもそれを克服した湯布院温泉だろう。

由布院の小さな奇跡 (新潮新書)

由布院の小さな奇跡 (新潮新書)

『読売ウイクリー』最終号+その他

 今日のバイト中に雑誌コーナーで雑誌を整理していたら、『読売ウイークリー』が現在発売している2008年12月14日号で最終号だということを知った。
 おそらく別のところに書いた2008年に「廃刊/休刊した雑誌」リストに追加しなきゃいけないんだなぁと。

 それにしても2008年を振り返ることがあるならば、第1に思い浮かぶのは、たくさんの雑誌が休刊・廃刊した年であったと思うかもしれないなぁとふと浮かんだ。
 
 ところで、いろいろチェックし忘れていたなかで、2008年に廃刊・休刊した雑誌についてのまとめは以下のサイトにて確認した。
 see : http://memorva.jp/ranking/sales/paper_media.php
 また、『雑誌』について、ライターや編集者などのやりとりは、TBS Radioの『Life』で取り上げられていた。
 see : http://www.tbsradio.jp/life/2008511/

 ところで、Google先生に「雑誌 廃刊 2008」で質問してみたところ、以下のニュース記事を見つけた。
 「読売ウイークリー休刊」と雑誌の危機:元木昌彦の深読み週刊誌:J-CAST テレビウォッチ(2008/10/30付記事)
http://www.j-cast.com/tv/2008/10/30029515.html

読売ウイークリー休刊」と雑誌の危機

拙著「メディアを思う日々」(ロコモーションパブリッシング刊)に、「日本一注目されない『読売ウイークリー』の研究」を書いたことがある。どうしたら、これほどつまらない誌面ができあがるのかを考えてみたのだ。その後、親しい読売新聞の幹部から、どうしたらいいのかと相談を受けたとき、いっそのことフリーペーパーにして、新聞と一緒に配れば、たちまち一千万部近い週刊誌ができるし、広告も入るはずだとアドバイスしたことがあるが、その「読売ウイークリー」が2008年12月1日発売号をもって休刊することが決まった。

 「不況もの」に注目

私は常々、この国には多様な言論がなければいけないと思っている。新聞やテレビでは報じることができないことを、雑誌、特に、出版社系の週刊誌や月刊誌がやっている。大相撲の八百長問題や、民主党議員とマルチ商法業界との癒着、破綻した年金問題など、週刊誌発のスクープは枚挙に暇がない。

しかし、ノンフィクションを中心にやってきた月刊「現代」も、新年号をもって休刊する。ここ10年で、「週刊宝石」「月刊宝石」「FOCUS」「噂の真相」「ダカーポ」が休刊したが、それに代わるジャーナリズム系の雑誌は創刊されていない。

部数の低迷や名誉毀損など訴訟の多発、賠償額の高額化などを理由に、安易に(私にはそうとしか思えない)雑誌を廃刊してしまう出版社の経営陣にいいたい。広告に依存した女性誌やファッション誌を次々創刊し、それらの雑誌の売り上げや広告収入が減ったからといって、こうしたジャーナリズム系雑誌を切り捨ててしまうのは、自社の雑誌で、他社に対して声高に求めていたCSR(企業の社会的責任)を果たさないことになるのではないか。雑誌が無くなることによって、長年そこで培われてきた人脈や編集ノウハウが、次代の編集者たちに受け継がれていかないことの重大さに、気付いてないとしか思えない。

枕が長くなってしまった。今週の面白かった記事3本を紹介する。「不況もの」では好対照な、「株暴落をチャンスにかえる!」(朝日)と「現代『貧乏物語』」(新潮)。

朝日は、優良株が下がった今こそ、株の買い時だとする。目新しさはないが、確かに、トヨタ自動車の下落率が44.64%、キヤノンが46. 05%と、半値近くになっているなら、ちょっと買ってみようかと思わせる。不動産も投げ売り状態で、新潟・越後湯沢の中古マンションが1戸50万円、千葉・館山のマンションが300万円台なのだそうだ。

 かわる暴力団の姿

新潮の1本目は、「『麻生総理』が大好きな『アニメ』制作者の残酷物語」。長時間作業、低賃金、保険なしの過酷な業界のことを知らずにアニメ外交を打ち出す麻生首相は、マンガそのものだと皮肉が効いている。

共産党の専従職員も負けず劣らずで、ブームといわれる「蟹工船」状態なのだそうだ。出稼ぎに来ている日系ブラジル人が多い浜松では、解雇される人が増え続け、銀座でも、手取りが1万円になってしまったと嘆くホステスがいる。

石原都知事の「山谷には一泊200円〜300円の宿がある」発言で注目を浴びた山谷は、日雇い労働者が減り、その代わりに、オタクの若者や外国人旅行客で満室になることもあり、大阪・釜ヶ崎にも「ハケンの若者」たちが住み始めているというのだ。

今週の一押しは、ポストの「山口組13人の直系大物組長『連名談判状』の読み方」。

直系組長の中でも大物だった後藤忠政組長を除籍したことに端を発し、この処分に異を唱える直系組長ら13人が、「連名談判状」を出し、山口組内部が大きく揺れている。

談判状には、月に納める会費が約100万円になり、五代目の時期から35万円も上がったと批判し、さらにこう書いている。「その上に雑貨屋ごとき飲料水、雑貨の購入、これは強制購入ではないか、我々は雑貨屋の親父ではない」。記事によると「山口組は06年から専用の商品パンフレットを用意し、直系組長たちに毎月、ペットボトル入りの水、歯磨き、シャンプー、石けん、洗剤、ティッシュペーパー、ボールペンなど日用雑貨を最小50万円単位で販売している」のだそうだ。現代ヤクザも成果主義をとり入れ始めたようだ。

 一読したとき、正直、書かれている記事の情報量と全体を通じて、なにを問題にしたいのか解らなかった。前半の『読売ウイークリー』の休刊と「雑誌の危機」については解る(ある程度ならば)、でも酷いのは後半。正直、このエントリーを書いている元木さんが「面白い、興味深い」とおもわれた記事なんだろうけれど、その情報量が多いだけで、3つの記事の繋がりが皆目わからない。

 さらに「しかし、ノンフィクションを中心にやってきた月刊「現代」も、新年号をもって休刊する。ここ10年で、「週刊宝石」「月刊宝石」「FOCUS」「噂の真相」「ダカーポ」が休刊したが、それに代わるジャーナリズム系の雑誌は創刊されていない。」という発言があるけれど、『DAYS JAPAN』がこの文を読んだらどう思うのだろうか?
 see : http://www.daysjapan.net/
 そして未だにある程度元気で、それなりに頑張っている「実話」系の雑誌は、ジャーナリズムじゃないの?

 と、あれこれ書いてまとまりがなくなりそうなので、この辺にしたいけれど。最近の傾向として、「ネット上での反応」やら「ネットで盛り上がっています」みたいな言葉が出てくるときに、雑誌の記事でもネットのエントリーでも、どっちがマッチなのかポンプなのか解らなくなるなぁと思ったりする。
 雑誌や新聞は、実売は売れていないけれど、ネタの源泉としての存在価値は「マスゴミ」と非難されつつも、それがないとネタが供給されないというジレンマはv速の記者達は感づいているのだろうか?とも思ったりした。v速の記者たちは、別のメディアの記者達のネタを提供する=スレッドを立てるのが仕事であって、自身で取材には行かないだろうし、追跡取材も、週刊誌的な補足記事も、新聞記者みたいな分析記事も書かないんでしょうし。
 でも、それでも、情報提供がなければ、別のところ探すよ的な方向もあるんだろうけれど、あくまでも二次使用でv速の反応を見ていたりするのかな?
 その辺はよくわかりません。

「小説」としては否定的な考えもある…?

 『京都新聞』2008年11月4日付記事より;

ケータイ小説選定に賛否
滋賀県教委の中高生向け読書ガイド

 滋賀県教委が進めている読書をしない中高生向き読書ガイドの図書選定で、ケータイ小説を入れるかどうかが議論になっている。手軽で読みやすいと肯定的な意見がある一方、文学的価値に疑問があるなど、ガイドへの選定に慎重な声があるという。
 県教委によると、全国に比べ滋賀県は中高生の読書量が少ない。このため本離れを食い止めようと、読書初心者の中高生向けに初めて読書ガイドの発行を予定している。
 ガイドへの掲載は100冊程度で、選定は市町立図書館の司書や学校関係者ら8人でつくる専門部会が進めている。
 選定会議ではそれぞれの部会員が本を選び、議論を進める。この際、ケータイ小説が話題に上がった。
 部会員からは「本になってベストセラーになっているものもある」「平易な文章も読書のとりかかりとしてはいいのでは」と許容する意見があった。
 一方で「話の脈絡が分かりにくいものもある」「文学的な価値はどうか」「時代を超えて読み継がれるかどうか」など「初めての読書」に薦めるには向かないという声があった、という。
 ケータイ小説は、携帯電話で読める手軽さから中高生から支持されている。しかし、文章が稚拙で絵文字が交ざる場合もあり、「小説」としては否定的な考えもある。
 県教委は、選定は来年年明けごろに終了し、ガイドは来年3月の発行を目指す。中学1年生か2年生に配布する予定という。


 とりあえず、速水健朗氏の『ケータイ小説的』も参考文献で入れておけばOKでは?
ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 それはさておき、「ケータイ小説」の文章に「絵文字」が入っているのは知らなかった。ってもうケータイ小説に触れる機会がないんだけれども。このトピックで考えるべきは、やはり「本」というメディアにすればいいんだろうか?そもそもケータイで読むことは想定されていないだろうし。。。
 それとも何度かリライトされて、書籍化されているもののみを対象にしているのかな?そうすると、例えば『恋空』だったら、どのヴァージョンを対象にしているのかわからないんだよね。
[rakuten:book:11917733:detail]
[rakuten:book:11917734:detail]

 あと選定委員さんたちがたくさん書籍化されているケータイ小説を読んでるの?記事には「選んだ」としか書かれていないので、読んだかどうかはわからない。ただ単純に「ベストセラーだから認めてあげてもよくね?」という理由だったら、単純に数の問題に還元されちゃうの?そしたら、『One Piece』とかもいいような。

ONE PIECE 51 (ジャンプコミックス)

ONE PIECE 51 (ジャンプコミックス)

 それこそマンガはいつまでたっても、こういう課題図書や推薦図書にならないよなぁ。学習目的のマンガもいまだにあるのに、どうしても課題にはならないんだよね。その理由はやっぱり「「小説」としては否定的な考え」の前提にもならないのかな。すでに学校や公立の図書館にはマンガや雑誌はごくありふれた風景だけれども、いまだに「ケータイ小説」を購入して、貸し出すことには未だに抵抗があるってことでしょ。ちょっと前には『ハリー・ポッター』がユーザーの要望があったから、たくさん入れましたってなるんだよね。ま、『恋空』があんなに売れた理由は図書館が買ったんだけれども。
「ハリー・ポッターと死の秘宝」 (上下巻セット) (ハリー・ポッターシリーズ第七巻)

「ハリー・ポッターと死の秘宝」 (上下巻セット) (ハリー・ポッターシリーズ第七巻)

 そうすると、次の段階としてたくさんの人に膾炙されたことから、権威づけされたということになるんだろうなぁとおもったり。
 あと書いていて思いだしたが、ワタシが活字で、文庫本を中学時代の先生に紹介されたものは赤川次郎の『三毛猫ホームズ』シリーズだった。その時、先生は「こういう本は、いわゆる『小説』的ではないけれど、読書のきっかけとしてはいいから、読んでみてね」と言われたことを思い出した。
 
 なんであれ、オフィシャルな「推薦」で読んだ本はまったく記憶にないような(苦笑)。作文書かされたという「行為」も覚えていないなぁ。
三毛猫ホームズの降霊会 (光文社文庫)

三毛猫ホームズの降霊会 (光文社文庫)

「コンビニ」バイトを始めたら....

だいぶシリーズとしてはすっ飛ばしていましたが、ちゃんと勤務していますよ(補足:このシリーズはmixiで書いていたものです。このエントリーは第18回目)。
書かなかったけれど、親会社が買収されて、組織そのものが改変されたんですけれど、店名は前のまんま。
気がつけば、バイトを始めて1年が過ぎ、メンバーの入れ替えも頻繁になった今日この頃です。
残ったメンバーはそれなりに大変です。あとtaspo効果のおかげで、売り上げはかなり上がりました。それにしても相変わらず、taspoで外国人への対応問題は何もないようです。日本には外国人はいないとでも思っているのでしょうかね?>JT様は。
あと、どうやらまたかなりお客様と仲よくなっています。
やっぱりきっかけはタバコだったりします。あと練馬区桜台と練馬地区の間に住む外国人が多くなっているのはすごく身体的にわかったりします。一番増えているのは南アジア系なんだけれど、インド料理のチェーン店が増えているのと関係あるのかな?都内では現在カレー戦争が勃発しているらしいけれど。
中野でも感じていることだけれど、ヨーロッパ出身の方もたくさんいます。
近年の外国人登録者数をチェックしなければですね。

さて、8月のバイト中はかなりストレスが溜まるUSENがあります。
もちろんご存じの方もいると思いますが、これです。
Hi-Prix太陽にほえろのテーマ〜うちらいい感じ〜」

最近、デブパレードがかなりひどいと思ったりしていましたが、これもかなりひどいです。
「脱力系ラップ」とかカテゴライズされていますけれど、こんな曲がUSEN-A-26chartの20位にランクされているって、これからお先真っ暗なんですけれど、良いんですかね?
別に「昔が良かった」ってことは言いたくないですけれど、この女の子たち、ラップできているの?それにしても相変わらず、ノーテンキに自己礼賛している人間は「ちょっと落ち着けよ」と思ったりします。
デブパレードでも思ったんですけれど、なんか自己満足で歌うのとか、語るのとか恥ずかしくないの?

哲学者の野矢先生の言葉じゃないけれど、「自信持って何かであることを示す人は信用おけないんだよね」っていうことを思い出す。野矢先生は学問する人間には「後ろめたさ」みたいなものが必要だと言ったが、その通りだと思う。
あとその野矢先生の言葉を受けて、分子生物学者の福岡先生が「自分のやっていることは間違っているかもしれないという可能性を常に自覚している必要がある」という言葉も思い出す。

爆笑問題のニッポンの教養 哲学ということ 哲学

爆笑問題のニッポンの教養 哲学ということ 哲学

権力性や立場性云々の議論ではなく、「可能性としての誤り」への自覚がないパフォーマンスはどうしても好きになれないし、そこへのアクセスがないアーティストは常に自己満足ではないかと思う。

さてさて、そんな長い前置きはともかく、本日のバイト勤務スタートすぐにある親子がお買いものをしておりました。
その時には、母親と長女の娘、長男の息子の3人でした。ちなみに子どもたちの関係は姉弟でした。その会話がかなりおもしろかったです。
ちょっと思い出して会話の一部を抜き書き。

母親:「お父さんに電話して、何時に帰るか『だけ』聴いておいて」

そして弟がケータイで不在の父親に電話をかける。

姉:「何時に帰るかだけ聴いてよね」

弟:「あぁ、お父さん、今日誕生日だよね」

母親:「あんまり余計なことは言わないでよ」

姉:「そうだよ」

弟:「今日さ、お父さん誕生日だよね。プレゼント買ったんだよ」

露骨に嫌な顔をしながら、レジ担当のワタシの前では平静を装う母親。その発言を聴いて、露骨にケータイを奪い取ろうとする姉。それに抵抗する弟。そしてそれを「感情労働」(byホックシールド)のため、何事もなかったかのように振る舞うワタシ。

姉:「なんでそんなことをいうの」

弟:「なんで言っちゃいけないの?」

この時点で父親との通話は切れている。姉は怒り心頭で、弟からケータイを取り戻そうと必死。レジ打ち終了。お会計を告げて、ビニール袋に購入品を詰めるワタシ。。。。
弟が反論。

弟:「だって、誕生日プレゼントがiPodなんてヒトコトもいっていないじゃない」

姉:「なんで誕生日プレゼントがあることをいっちゃうの。プレゼントはビックリさせるために用意しているのに、先に言っちゃったら、楽しみがなくなっちゃうじゃない」

弟:「だから誕生日プレゼントがなにかはいっていないじゃない。なんで怒るんだよ」

姉:「そんなことじゃない、誕生日プレゼントがあることを言っちゃったのがダメなんだよ」

母親:「あぁー、もう。」(ちょっとあきれ顔)

ワタシ:「おつりが○○○○になります」(一応できるかぎり無表情)


その後、ケータイを奪われんとする弟に姉が食ってかかり、母親は一番大きなビニール袋を下げて、店の外へ。姉は怒り心頭で、弟は半泣き。
ワタシと同僚は、その様子を見ていて、ヒトコト。

「やっぱり、オトコって余計なことをつい言っちゃう時があるんだよね。そしてやっぱり女性は強いのかもね」

しみじみと納得しつつ、こんだけ家族に愛されている父親がすこし羨ましく思ったりした。
Hi-Prixが定型句のように使っているフレーズ・「家族にも優しく」が白々しく思えた夜でした。ちなみに同僚もワタシも姉の意見に清き一票でした。

そしてこのエントリーを書きながら、この会話劇では不在の父親が、どういう風にフォローしたのか、そして妻であり、母親である女性とどんな会話をしているのかなぁと思ったりした。
オヤジの誕生日のプレゼントがきっかけで半泣きする小学生がまだいたことにちょっと嬉しかったり、(^_^;)\(・_・) オイオイとおもったり。

親になるって、こういうことがいっぱいあるのかなぁと思ったりした。
(2008.08.23)