「夕凪の街 桜の国」鑑賞録

夕凪の街 桜の国 [DVD]

夕凪の街 桜の国 [DVD]

 以前に知人のくまさんより紹介されていた映画です。ようやく観ることができました。

 物語は「夕凪の街」編と「桜の国」編とに分かれていますが、ある家族の世代を超えた物語としてうまくまとめられていて、それぞれがバランスよかったです。

 「夕凪の街」の舞台は、1958(昭和33)年夏の広島。原爆投下から13年が過ぎ、広島の街を流れる川(おそらく太田川)沿いのバラック地帯に住む26歳の平野皆実(麻生久美子)は、小さな建築会社で事務の仕事に就いている。家族は同居している母のフジミ(藤村志保)、水戸に疎開したまま叔母夫婦の養子になった旭(伊崎充則)。そして戦死した父と妹の翠。
 
 物語は皆実が職場の同僚で営業係の打越豊(吉沢悠)に心惹かれていくところから始まる。打越も皆実のことを気にかけているが、皆実は最後の最後で打越の思いを受け取ることをやんわりと拒絶するのである。その理由は彼女が原爆被爆者であり、戦争で亡くなった家族(父と妹)への申し訳のなさから、自らが幸せな世界へと踏み込むことをためらっている。だが打越は爆心地よりも離れたところで終戦を迎えたために、彼女が被爆者として、そして戦争の生き残りとしての葛藤を理解することがなかなかできずにいたのである。
 皆実の住む川沿いのバラックは戦後、生き延びた被爆者たちがスクォッティング(squatting:無断占拠)でつくられた形跡があり、そこに集まって住む人たちのほとんどが被爆者である。そして皆実は、「みんな誰もそのことについて何も言わない」とまで思っている。つまりこのバラックに集住している人々が、一般の人とは違うということを自覚しつつも、それについて誰も何も言わないのである。
 皆実の住む集落は、被爆者であり生存者たちが、川沿いというきわめて劣悪な場所で寄り添って生きており、打越や皆実の同僚たちは、市の中心部からある種排除された人々が寄り添う集落へ出かけていくことになる。また皆実は逆に、排除された側の集落から、市の中心部へと行くことになる。その時に皆実は彼女自身の体験やトラウマをなるべく晒さないように振る舞いながら。それはさりげない小道具で示されている。
 物語の後半では、打越の思いに答えようとしつつも、生存者として「生き残ったことへの申し訳なさ」を抱える皆実が、自分自身の生を打越に問うていくのだ。打越が皆実の思いを受け入れたとき、被爆から13年後の皆実は原爆病を発症してしまうことになる。
 そして高校生になった弟の旭との再会ののち、皆実は亡くなってしまう。

 「桜の国」の舞台は、平成19年の東京(おそらく国分寺市西武新宿線沿線「恋ヶ窪駅」が出てくる)。28歳の石川七波(田中麗奈)は都内に住む会社員。家族は父の旭(堺正章)と研修医の弟の凪生(金井勇太)。母である京花(栗田麗)と、祖母のフジミは小学生の時に原爆病にて死去している。
 定年退職した父の旭が最近になって、不審な行動をとったり、通常ではあり得ない電話料金を支払っていることから、父を認知症などの痴呆が始まっているのではないかと疑い始めている。ある夜、旭がこっそり家を抜け出してどこかへ出かけていくことを尾行していくと、恋ヶ窪駅にて小学校時代の同級生で、凪生の恋人であり、看護師である東子(中越典子)と出くわす。二人はそのまま旭を尾行することになるが、旭の行く先は広島であった。
 そして父の尾行を小学校時代の同級生とするという奇妙な旅のなかから、七波は自らの家族の過去を追憶していくことになる。父の旭が会っていくのは、叔母である皆実にまつわる人たちであり、ほとんど面識のない。父も母も祖母も語りたがらなかった物語である。そして七波は自分自身のなかにも多くを語りたくない物語があったことに気づいていく。
 それらは幼少時代を過ごした東京都中野区松が丘での記憶であり、母の京花と祖母のフジミが自らは全く知らなかった「原爆」の被害者であり,それによって亡くなってしまったことについての記憶である。
 父を尾行することから始まって、亡くなった家族の足跡をたどっていく旅のなかで七波は自らの身体に付された過去を受け入れていくことを確認することになる。


 さて、この映画を観てからしばらくして、2冊の本のことを思い出した。
 一冊目はマイク・モラスキー著『占領の記憶・記憶の占領』
 

占領の記憶/記憶の占領―戦後沖縄・日本とアメリカ

占領の記憶/記憶の占領―戦後沖縄・日本とアメリカ

 もう一冊は、マリタ・スターケン著『Tangled Memories』→『アメリカという記憶』
Tangled Memories: The Vietnam War, the AIDS Epidemic, And the Politics of Remembering

Tangled Memories: The Vietnam War, the AIDS Epidemic, And the Politics of Remembering

アメリカという記憶―ベトナム戦争、エイズ、記念碑的表象

アメリカという記憶―ベトナム戦争、エイズ、記念碑的表象

 何を思ったかを端的に示せば、被害を纏わせられる身体としての「女性」についてだった。この物語の主人公である二人の女性(皆実と七波)はいずれも傷を負っている。ただし、七波は皆実のように身体的な外傷を受けているわけではなく、あくまでも普段は市井の女性として描かれている。彼女の受けた傷はむしろ個人の内面に残された「原爆による被害者」としての母と祖母を受けきれずにいたということである。皆実の場合は実際の被爆のサバイバーであり、サバイブしたことによってさらにその「被害」というものは大きくなっていくのである。そしてこの物語に出てくる多くの女性、フジミにしろ、京花にしろ、いずれも「被害」というのが様々な形で示される。フジミの場合は被爆直後に目が腫れてしまったことにより、サバイバーでありつつも現場の状況を見なかったこと、京花の場合は生まれてすぐに被爆したことによる認知障碍などがあることが示されている。
 そして対照的に男性たち(打越にしろ、旭にしろ)は直接的な意味での「被害」を被っているわけではない。むしろその「被害」を受け入れる存在として描かれていく。『桜の国』に出てくる凪生がむしろ例外的にそのつきあっていく異性との関係が逆転する。受け入れる側は東子であり、凪生は「原爆2世」として「被害」を受けていると描かれる。そして東子の場合は凪生とつきあっていくことを周囲から非難されることによって間接的な「被害」を受けることにもなるのだが。その間接的な被害を受け入れることが求められるのは打越にも旭にも共通するし、七波はもっとも色濃くその影響があるように思われる。

 そしてこの物語が描いている様々な「被害」がある種の変容を起こしているだけの時間の長さがあるように思う。実際物語のなかで原爆が投下された時の情況は、様々な人々の語りや身体に刻印された傷によって物語られる。さらには太田川の原爆スラムとそこにたてられている「不法占拠禁止」の看板、そして現代における「被爆2世」と呼ばれる七波や凪生という存在。時間が経過することによって「被害」は目に見えて、囲い込まれるものから、個々人の内面のトラウマや言われもない偏見やスティグマへと変わっていく。そしてそれが直接的には個人の先天的なものによって与えられていくプロセス、京花のような生まれた直後に被爆した者、さらには家族の一員が被爆者であるケースなど。
 さまざまな「被害」とそれぞれがそれに向き合っていくプロセスが映画のおもしろさであり、悲惨さとは違うところから浮かび上がっていくのである。
 書いていて、少しまとまりが悪く、どういうことで閉めようか正直迷っていますが、マリタ・スターケン著が示したように、それぞれの国家なり地域に埋め込まれたさまざまな記憶や被害が新たな物語の源泉になることは多々あるとしても、それがスターケンやモラスキーが示したような、幾重にも描かれ、メモライズされる時に、その記憶や被害についてどのような立場をとることが可能なのかとも考えた。「歴史的真摯さ(historical truthfulness)」について議論していたテッサ・モーリス・スズキの著書が頭に浮かんできた。

過去は死なない―メディア・記憶・歴史

過去は死なない―メディア・記憶・歴史

(2008.12.09)