noiseと舞台
唐突ですが、ある種の作品を作るとか、その作品を受け取るかということに直面したときに、感覚的に合う/合わないみたいなものがあったとするならば、その「感覚的に合う/合わない」というものはなんだろうか?と思ったりしました。
「感覚的に合う/合わない」というものがあるとすれば、おそらくそれは「前提」とか「予測」がついたり、それに合致したりする類のものかもしれないなぁと思ったりします。
いい意味での予想外と、悪い意味での予想外ともありますが、感覚的なものというのは、当事者である人間にとってもある種、心地好いか/そうではないかは判断できるほどの言葉がないように思ったりもするので、タチが悪いです。
さてタイトルにつながりますが、個人的に心地の良いものとか、「これっていいなぁ〜」と思うのは、おそらくnoise(雑音)なるものが混入されているのかと思ったりします。
先日、相方から知った「つけナポリタン」のことで、地域活性化と名物料理を、テレビ東京の「チャンピオンズ」にて放映された云々の経緯を知り、それについて一応批判的なスタンスからコメントしたことがある。そして現在、Googleで調べてみると、「つけナポリタンの街」だからということだけで一人歩きしている感が否めないんだよね。
see : 「 つけナポリタンの町にもの申す!! 」(http://plaza.rakuten.co.jp/LaMiaVitaComeVa/diary/200810230001/)
こういう記事がgoogleの一件目に出ている時点で、ちょっとおい、もうちょっとどうにかしろよと思ったりするのです。
also see : http://orz.fujiblog.jp/?eid=841814,http://plaza.rakuten.co.jp/tonbee/diary/200810150001/
そんで、この「つけナポリタン」云々以前に、まったく別のジャンルからこのタイトルは冠されているんですが、特定のものを取り上げる、そしてその特定のものを目立たせるときに、必要なモノが圧倒的に欠けているのではないかと思ったわけです。
それがnoiseであり、舞台だと。
そもそも論として、noiseは雑音であるよりもBGMのようなものだとこの文脈では使います。
「雑音」になるためには「雑」になって、疎外なり邪魔になるための不快感を喚起しなければならないからです。でもよくよく考えると、感覚的にnoiseはBGMのように環境としてあるわけです。そしてそれがある程度存在しない場所におかれたならば、それは不愉快と感じられるための、聴いていないし、聴こうとしない音楽として存在するわけです。
B1グランプリみたいな話と、それとはまったく違う分野からの話で切り込みますが、そもそも論としてさる文化が膾炙されるためには、ある程度のnoise的、さらにはそれを包含するような舞台が必要であると思ったりします。
私が「つけナポリタン」について、ある種否定的だったり、これから都内の御輿は全てにおいて神社を落とすことがあり得るのと、AV業界においてS1というのがかつてのh.m.p.と同じ袋小路に陥っているのは、端的に言えば、同じようなロジックに嵌っているだけだと思ったりしているのと繋がる。
noiseとは、逸話といっていいかもしれない。
そもそも焼きそばにそこまで思い入れが必要かどうかわからない。「宇宙少女」は後のキャッチコピーで「宇宙少女」を売り出すほどの美しさは兼ね備えていなかったし、その後のh.m.p.がむしろ美少女路線をつくるために、「純粋培養」的な女性像を作るために作品内部に一定空間の閉鎖性を志向していたのは明らかだし、S1等のメーカーは基本、その同じ「閉鎖性」と女優のネームバリューのみで勝負している、という意味でのワンパターンの再生を繰り返しているにすぎない。
そしてnoiseと舞台は限りなく脱色されて、脱空間化、脱個人化されるために仕向けられるように思えたときに、その欠如が如実に示されている。
街興ししたいのにもかかわらず、「完売」というある種、売り手としては屈辱的な看板を出したにもかかわらず、メディアで取り上げられているから、って。
私個人的には、どこかのメディアに取り上げられましたのでは、おそらく沈没するのは間違いいないし、S1だって、つぶれにないために看板となる女優を取っ替え引っ替えしているだけだろうと思ったりする。
単純にいえば、ある種のロールモデルは、noiseと舞台があるものだけだということだ。
メディアに取り上げられました云々や、看板の付け替えだけで何とかなるのではなく、むしろ必要なのはnoiseであり、それを喚起させる物語である。そしてその時に重要なメッセンジャーとしての、メディアや社会科学者などではなくて、それを引きつけるだけの物語であり、noiseにともない、そしてそれを舞台として作り上げ行くための仕掛けなのだと。
この意味でもっとも参照されるべきは、別の物語がありつつもそれを克服した湯布院温泉だろう。
- 作者: 木谷文弘
- 出版社/メーカー: 新潮社
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