蒼井そら、セックスを語る

http://blog.livedoor.jp/aoi_sola/archives/50928160.htmlにて蒼井そら曰く;

SEXはディスカッションです。
話し合いで上手くいきます。

こうして欲しい、ああして欲しい
言葉にすることは大切です。

そしてギブアンドテイクです。
やってくれたらやり返してあげましょう。

(中略)

一番大切なコトを忘れないでよ。
女の子は脳でSEXをするんだから。

学部時代の卒論でテーマにあげた、小室友里もエッセイの中でそのようなことを言っていた記憶がある。
そしてワタシが所属する大学に、加藤鷹が大学祭でトークライブをしたときにも同じことを言っていたように憶えている。
セックスという行為をパッケージングして、商品として売り出す生産者の側にいる人たちが、画面の派手さや出演者の多さなどをウリにしはじめるのはいつからだろう?
アダルトビデオ業界においての通説は、「ビデオ安売王」誕生以降のセルビデオが始まって、さらには日本ビデオ倫理協会(cf.http://www.viderin.jp/)に加入しないメーカーが誕生したことからか(たとえば「ソフト・オン・デマンド」など)。

ただしセックスのマニュアル化は、映像メディア以前に雑誌メディアで流通していたのではなかったかな?
1980年代前半の男性雑誌(たとえば『Hot-Dog PRESS』とか)などではセックス特集がかなり組まれていたと伝聞で知ったのだが、実際にその手の雑誌を読んだことがないのでなんともいえない。
さらに女性ファッション誌にも、小室友里夏目ナナなどがセックスの指南役として出ていなかったけ?

そのようなマニュアル化や、特定の技術やパフォーマンスだけがもてはやされていることへの痛烈な批判として読み取ることができるかもしれない。
書いていて、少し考えたのはセックスという行為が、蒼井そらのいう「ディスカッション」や「ギブアンドテイク」ではなくなり、「プレイ」になっているのではないかということ。
つまりそれぞれがそれぞれに応じた「役割」を演じることでしかなくなっているのではないか、しかもその役割は個々人の欲望に沿うだけで、他者は極端に言えば排除されている。
一方的な欲望を満たすために、他者は「プレイ」の道具になってしまってはいないか。
マニュアル化は基本的に道具に対応するために作るものであり、人間の行為にそもそも不適応ではないのかとも考える。

なんか、ボードリヤールとかメルッチが浮かんでくるが、まとめられそうにないのでこの辺で。

2007.07.06追記;
小室友里夏目ナナについては、
http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/50199877.html(「有名性」の有限性と、セクシャルな伝道師としての役回りという、2重のラベリング」)という2006年5月24日のエントリーで触れていた。

さらに追記;
セックス=性行為のマニュアル化はよくよく考えればずっと以前からあったはずだ。春画などもあるし、古代インドの経典・カーマストーラってのもあったのだし。

素顔

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「そら模様」

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(2007.07.06wrote)