夢を与える人形、そして人形が人間に戻るとき
- 作者: 綿矢りさ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2007/02/08
- メディア: 単行本
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本日、電車に乗っている間に、読み始めると止まらなくなって、帰宅するまでに読み終わりました。
ストーリーは、ある美しい娘・夕子が、幼少期から知人のカメラマンの紹介から、雑誌モデルになり、それからある食品メーカーのCMモデルとして「半永久」の契約を結ぶ。CMに出始めたときはまったく無名の新人女優であったが、事務所の長期戦略に基づき、次第に国民的なキャラクターである「ゆーちゃん」が次第に浸透。言葉を発することなく、自己主張することなく、実際の生活とCMキャラクターがリンクしていくなかで、次第に少女のなかの「ゆーちゃん」だけが一人歩きし始める。
そしてこの少女・夕子が、「夢を与える」キャラクター=人形として、成長していくプロセスと、そのキャラクター=人形の重さに耐えきれなくなっていくなかで少女・夕子が壊れていくプロセスを描いている。
その少女は、自らが成長していく中で、自らが周りの同級生とはまったく異なる生活をすごし、テレビのなかのキャラクターと自分自身とのギャップに、一時期折り合いをつけようとしたのだが、結局人形になりきれない彼女は、はじめに恋をした恋人との関係を続けていく中で、自らのキャラクターを壊していく結果になるのだ。そしてそれまで自らのキャラクターを一緒に作り上げてきた母親、彼女を一人の娘として扱おうとしたが結局それについて行けずに、家庭すら維持できなくなる父親。かつて一時だけだけど、彼女自身をきちんと観て、扱った「初恋」といえるかどうかすらわからない幼なじみ。
彼女を人形として扱おうとする芸能事務所のマネージャーに社長。そしてかつて、夕子と同じように「夢を与える」人形だった、事務所の先輩(レースクィーン)たち。さらにそして、本ストーリーではまったく登場しないが、キャラクター=人形としての「ゆーちゃん」しか観ていない、CMを観ている人たち。
「ゆーちゃん」というキャラクター=人形であること、つまり少女は多くの人に「夢を与える」ということを行っていることが、素直に受け入れられてきたときから、次第にその「夢を与える」ということそのものへの疑問。そして、その欺瞞を、家族との関係、仕事での大人たちとのつきあい、そして初めて恋に落ちた彼氏との関係で、自分を見失っていく。
と書くと、あまりにもベタなキャラクター設定で、おきまりのストーリー展開だと思ってしまいがちだが、それを感じさせない筆致と、ときどき織り交ぜられる綿矢りさ独特の文体・言葉遣い、そして一人称的な書き方と三人称的な書き方の微妙な往復。
それらが不思議な混沌さを作り上げている。あたかも「夕子」の誕生から18歳までと、「ゆーちゃん」の誕生から死去までをいったり来たりするような、そして「夕子」と「ゆーちゃん」の人生を覗き見るような錯覚を抱かせる。
この小説を読んですぐに思うのは、実際にアイドルとして「夢を与える」キャラクター=人形を演じてきた人たちが、あるきっかけによって、そのキャラクターを壊していったモーニング娘。のことだった。もちろん矢口真里やミキティはそのスキャンダルすらメディア・イベントにしたように。
そして自分自身のキャラクター=人形を忠実に守り、美しくメディアの前から消えた山口百恵という理想型に、キャラクター=人形の「死去」がそのまま彼女自身の死に結びついた岡田有希子。
自室に戻る前に、コンビニに寄ったのだが、マガジンラックにはある週刊誌には「夕子」と同じような年代のグラビアアイドルが毎日、代わる代わる登場し、元気いっぱいに海や砂浜ではしゃいでいる。それらを捲っていくうちに、彼女たちの笑顔を直視できなくなっていた。彼女たちグラビアアイドルが、輝けるのはわずかでしかない。トップアイドルだって、日々新人の登場によって、追い落とされる可能性はあるし、そもそも『ヤングマガジン』や『ヤングジャンプ』のコンテストで最終候補に残った女性たちは、いつの間にか名前すら記憶されずに、ひっそりといなくなっている。そして、一年前の週刊誌、三年前、十年前、とアイドルたちは、どこへ行ったのだろうかとも。
ちょっと話が逸れた。
読了後、「夕子」が最後の最後で述べた「夢を与えるとは他人の夢になりきることだ」という台詞について逡巡した。よくよく思い出したら、同じ台詞を自分自身の体験から語っていた女性がいたことを思い出したのだ。
過剰なまでに、自分自身を「オタク」好きの女の子を演じ続け、そのキャラクターが終わったら、何もない真っ白な部屋に戻る木下いつきのことを。
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そして、他のAV女優という仕事をしている女性たちはすくなからず、自分自身のキャラクター=人形と、自分自身のことについて言葉を残していたことを思い出す。
小室友里や蒼井そらは、それぞれのキャラクターのことを愛しているといっていた。自分自身と自分自身が演じるキャラクターをうまく切り替えて、同じ1つの身体で違うキャラクターがあることを受け入れて、ともに存在し、成長していこうとすることを受け入れるのだ。
「夕子」の場合、その切り替えと、肥大化した自分のキャラクターから降りることでしか、自分自身を受け入れる=自分自身の存在を取り戻すことができなかったのではないのか。
「ゆーちゃん」というキャラクターが持っていた信頼を「一度失った」場合、もうかつてのキャラクター=人形であることはできなくなる。人間であれば、失敗してもチャレンジすることは可能だが、人形は壊れてしまえば元に戻らない。壊れた人形に居場所を提供するほど、世界に余裕はないのだ。それが日常化しているのが現在の世界であると、綿矢りさはつきつける。
そして、綿矢りさ自身が、いちどメディアで持てはやされたということも、どこか背景としてあるのではないか。前作『蹴りたい背中』は、作品というよりも最年少芥川賞受賞作家というキャラクターで売れたということがあるからだ。
- 作者: 綿矢りさ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2003/08/26
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先に、小室友里や蒼井そらのことに触れた*1が、改めて読み直せば、同じことを及川
奈央も述べていた。See:http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/50329138.html,さらに、引用先は【独女通信】及川奈央さんインタビュー"私の仕事・恋愛・人生"(前編)
及川奈央曰く;
「25、 6歳になって、やっと落ち着いて自分や周りを見ることができるようになりましたね。それまではがむしゃらに走って、肩に力を入れすぎて体を壊したこともありました。でも最近はやっと『ただ走ればいいわけじゃないんだ』っていうことがわかってきたんです。もちろんそれは走り続けてきたからわかったことで、後悔はしているということではありません。(2007.07.29wrote)以前、仕事の上での恩人だと思っている方に言われたのが、『心っていうのは筋肉と一緒で、ずっと張り詰めているとパチンって切れてしまう』ということ。そのときもわかっていたつもりだったけど、今はさらによく理解できますね。しゃがまないと、高くジャンプできないじゃないですか。今まではいつも背伸びして必死でジャンプしていたけど、一度しゃがんでからジャンプしたほうが高く飛べるんですよね。休むべきところではしっかり休んで、ちゃんと充電をする。」
(中略)
「正直、今までに何度も『及川奈央』を辞めようと思ったことは何度かありました。わからないことだらけの先の見えない世界で何度も挫折しそうになって、もう終わりにしてしまいたい、って……。
でも、今、辞めたら絶対に悔いが残ると思ったんです。だったらあと1週間だけ頑張ってみよう、1週間頑張っていたら、今よりも少しは上がっている状態で辞められるかもしれない、ってそんなふうに考えていたら、いつの間にかここまで続いていました(笑)」
なお、同書についてはいつもお世話になっているはてなユーザーの以下のサイトを参照のこと;
http://d.hatena.ne.jp/novelarosa/20070714
http://d.hatena.ne.jp/dekoponn/20070219