「沖縄イメージ」ではなく、Okinawan Imagesの存在

今日の那覇空港にて。
直接今回の調査旅行とは関係しないけれど、おそらく今後の課題として考えなければならないことを、ある男性との会話で思い知らされた。

午前10時50分過ぎ。ANAの飛行機の搭乗口近くの喫煙所。
私がライターをポシェットの中から探していると、すっと緑の100円ライターを差しだされた。
差しだした男性は私を見て笑顔になる。私は手を伸ばしてそれを受け取り銜えていたタバコに火をつけると、アタマを下げてライターを返却する。その時に御礼の言葉をどのように伝えていいかわからなかった。それよりもその言葉すぐさま口にでなかった。
その男性は欧米人であった。彼はかりゆしウェアというよりも、そこらの量販店で売られている派手なシャツ(アロハシャツ?)を纏っている。
どういういきさつで、彼が那覇空港にいるのか気になったので聴いてみた。私の英会話力は中学英語ぐらいだから満足に話せないはずだった。それでもかつて在沖米軍基地にいたのかという趣旨の質問をしてみた。
彼と会話をしていく中で、飛行機でメモしたことをいくつか組み合わせてみると次のようになる。

彼は1966年に沖縄に始めてきた。現在、グアムかどっかから船で沖縄にやって来た。彼は自分自身の名刺を私に見せてくれたが、当たり前だが英語なのでなんのことだかさっぱりわからない。話を聞いていると、海運会社か客船かで船長をしているという。彼は仕事で沖縄にやって来て、「沖縄で別の船長に担当を変わったからそれからはvacationだったんだよ」と笑っていた。家族はアメリカ本土にいるとのこと。
沖縄での休暇を過ごして、彼は大阪/関西空港を利用して、アメリカ本土に戻るという。彼が今住んでいる都市の名前を聞いたのだが、残念ながら聞き取れなかった。orz

しばらく喫煙所で話していたがそれぞれ吸い終わりあとにする。
売店の前にいてなにやら物色している彼に「see you」と挨拶して、搭乗口付近をウロウロしていた。ケータイの電池が残り1つしかなく、空港内の電源コンセントを探していたためだ。32番ゲートと33 番ゲートの合間に公衆電話の跡か、お客のPC充電台のようなよくわからないものがあって、ラッキーと思って早速充電していた。
しばらくすると彼はやって来て私に話しかけた。
待合室の椅子に座っていた男の子たちを指さして、手のひらに日本の小銭を見せながら
「これを子どもたちにあげたらHappyになるのか?あなたはどう思う?」
突然のことで、どういうことかわからずに「Maybe Happy? Maybe not Happy?」と聞いてみる。
よくよく話を聞くと、もう日本を離れるから細かなお金は使わないんだよね。だから彼らにあげたら喜ばれるかな?あなたはどう思う?ということを聴いていたのだ。
彼の話を理解して「大丈夫だよ。ちゃんと言えばわかってくれるよ。」と答える。そして突然見知らぬアメリカ人から小銭を手渡された男の子はキョトンとしている。差し出がましいが、彼の意図を男の子家族に伝えた。
「彼は、もう日本を離れるからこのお金は使わない。だからあげるんだ」
と男の子たちとそばにいた両親にいうと、両親もキョトンとしている。気まずい雰囲気になるのは嫌なので、どこから来たんですかと両親に伺うと「神奈川から」と教えてくれた。それを彼に伝えると。
「おぉ。私は船で横浜に行ったこともあるんだ。山下公園とかにも行ったんだよ。知っているか?」と。
それを勝手に翻訳してその家族に伝える。父親は突然アメリカ人とその言葉を通訳している私にまだ戸惑っていたけれど、母親は「ありがとうは?」と子どもたちにいう。
子どもたちはまだ突然のことでよくわからないまま、「ありがとう」という。
彼はその様子をみると笑顔になった。それからしばらく彼は私についていくつか質問してきた。以下英語で

「あなたは学生か?それとも企業のリサーチャーか?」
「今、大学生で、専攻は社会学です。」
「今はMasterか?」
「いや、博士課程です」
「おお、それは興味深い。どうして沖縄に来たのか?今なにやっているのか?」
「もともと高校生の時まで沖縄に住んでいたんだけど、今は東京に住んでいる。沖縄からたくさんの人が、東京や横浜、大阪などの国内にのみならず、ハワイやブラジル、アルゼンチンなどに移住している人がいる。それを調べている。あなたはかつて米軍基地で働いていた(=work、個人的には「従軍している」という単語がわからず)していたの?」
「1966年にmarine(海兵隊)にいたんだ」
「どこの基地?キャンプハンセン?」
「そうそう、キャンプハンセンにいたんだ」
「昔とやっぱり沖縄=Okinawaは大分変わっていますか?」
「大分変わっているよ。世代も変わっているし」
「例えば、アメリカ軍に従軍していた人と、沖縄に住んでいた人が結婚して、ハワイやアメリカ西海岸に住んでいる人も知っているんですけど、そんな感じですか?」
「そうそう。私はそういう人たちを見てきた。世代が変わることによって、point of view(視点)も変わる。かつては、日本、沖縄、アメリカだったけれど、今の若い世代はあちこちに行くことができる。それは自由だからだ。今は、若い世代は世界中どこでも行くことができるし、多くの人が移動・移住しているよ。やっぱりみんな自由(freedom)だからなんだよ」

そんなやり取りをしていたら、彼は次の言葉を言った。

「Okinawaは日本にとってHawaiiのようなもんだろ?」
「ハワイ?」
アメリカ人もHawaiiにvacationでいくんだよ。日本人だってみんな休みになればOkinawaに来るんだろ?」
「でもハワイはアメリカといってもカリフォルニアとかロサンジェルスなど西海岸の人たちが休暇でいくんでしょ?ニューヨークなどアメリ東海岸(East side of Americaといったが、おそらくこの英語は間違い)に住んでいる人はハワイじゃなくてフロリダとかですか?」
「そうそう、フロリダとかバハマとかジャマイカ、レイシェル諸島とかに行くんだよ。でも休暇に『islands』に行くのは変わらないだろ?」
「そっか」

このときにケータイのデジタル時計は11時18分を指している。
彼が搭乗する関西空港行きの飛行機も、私が搭乗する羽田空港行きの飛行機も出発前だった。
出発時刻を確認すると、
「そろそろ行かない」と彼。
「私もそろそろ行かないといけない。ありがとう。また」と私。

今回の調査で、複数化・多様化する「沖縄」というイメージを確認したかったけれど、そこには彼のような退役軍人たちの存在や、中国大陸・台湾出身者などを含めた外国人観光客がまなざす『Okinawa』ということは念頭になかった。
もちろん今年10月に開催される『世界ウチナーンチュ大会』というのもあったけれど、それはあくまでも沖縄県出身者やその子孫・関係者などをターゲットにしているし、彼ら・彼女らが作り上げる『Okinawa』であるけれど、彼のようなかつて従軍し、いまは退役軍人として「Vacation」としてやってくる観光客はどのような『Okinawa』を見つけたり、再発見したりするのだろうか?
そして彼がもしかつてのコザの街、つまり「空港通り」や「中央パークアヴェニュー」とかではなく、「Aサインバー」が立ち並び「BC通り」となっていた 1966年のコザの街、さらには辺野古歓楽街や金武や読谷、嘉手納とかのいわゆる「基地の街」は金網の向こう側からはどのように映ったのだろうか?

羽田行きの飛行機のなかで彼の言葉を慌ててメモをとった。そしてこのエントリーを書いているときも、彼はおそらくまだ関空経由で国際線に乗り、アメリカ本土に向かう飛行機の中だろう。
そして彼から小銭を受け取った男の子たちそしてその家族にとって、「夏休みの旅行」では出会うことが難しい彼をどのように体験し、記憶したのだろうか?

複数化・多様化する「おきなわ」「オキナワ」「沖縄」「Okinawa」の存在をどう捉えるか?
最後の最後で彼から大きな宿題をもらった気がする。

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2006.08.17wrote

あれから1年が過ぎたが、いまだにこのことはちょっと思い出しては考えたりする。
あのアメリカ人男性は今頃どこかの「Island」でVacationを楽しんでいるのかな?