書くこと=芸、そして「ステージ」、そして改めて『作者』とは何か?
某SNSに吐き出した言葉を今頃ながら、思い起こすときがある。
このエントリーを書いたのは2007年4月29日であるが、おそらくワタシがこのBlogを始めた直後にかんじていたこととどこか通底するのかもしれないと思っているからこそ、憶えている。
その時のエントリーで以下のように書いた(一部修正済み)。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070425/p1経由で、以下の言葉を知る。改めて想起するのはBenedict Andersonの言葉だった。http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20070425/p2に曰く(一部抜粋);
僕の持論としては、ただの感想であっても公開することは様々な問題を発生させる可能性があるから、覚悟しておけよ、であるのは何度も述べている通りです。その段で行くと、Webに文章を公開する、というのは一つのステージであり、少なくとも自分の日記帳や友達との雑談に対して遥かに高いステージであると思います。そのことを自覚した上で、あくまで感想を感想と言い続けるのがそのステージの正しいあり方であり、議論に参加してしまった時点で自らの意思で一つ以上ステージを上がったといってしまうと乱暴かも知れませんが、そういうことです。基本的に同意です。
一部の方とのやりとりでは、違う意見があるかもしれないが。ワタシは基本的にそんなことを念頭において書いていたりします。
「書くこと」は、書かれたこと以外の内容、そしてその内容以外の情報を伝達することもあるし、「読み逃げ」云々のこともあるし、さらにいえば「読まないくせに、他人にはコメントをつける」ということもあるし。
それはまあ、こちらのエントリーが読む価値のないものだと判断されるということで。情報の編集権というよりも「情報の接触選択権」(←造語です)があるかもなぁと思ったりします。
雑文終わり。
というか、こんなの書いていいのかな?(一応エントリーは書き直しています。でも毒吐いていますよね?)
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彼は自分自身が書いた『想像の共同体』の受容のされ方について、当初の想定外の経路を辿り、世界各地で受容されたことを、早稲田大学での講演で述べている。
本の内容云々ではなく、彼の本が英語版で出版され、その後複数の主要な地域で訳されたことによって、たとえばスカンジナビア諸国でのように、その主要な言語が共通されている地域であったとしても、自分たちの国家の言葉で訳された『想像の共同体』をほしがったというエピソードだ。
その意味で、上記の引用とアンダーソンの著作とのつながりを考えたときに、エントリーを書く人間が、そもそもエントリーをコントロールできるのかという問題に突き当たるのだ。おそらくそこでNOV1975さんがおっしゃっていることを、前提条件としていなければならないと思うのだ。
それについて、ワタシはかつて以下のように書き残していた。
自分中心であるはずのBlogに、必然的に他人志向が混入してしまう。そしてそれは羨望と、嫉妬と、歓喜と、不安と、恐怖と、連帯感と、孤独と。書くことは、すなわち、blogやSNS上ではそれのみにおいてしか評価されない。当たり前のことだが、それを受け入れられずに、簡単化されていくときに問題が生じるし、そもそも論としてSNSや検索エンジンの高精度化にともない、そのようなことを想定しなくなる状況を、環境として提供しているように思うし、それでこそメディアを媒介しなければ他者と関係性を確保できない状況を、社会全体が意図的に作り出しているように考える。そしてそこで、特定のトピックのみに盛り上がる「祭り」化が現れるし、「KY」という参照枠のないテストをずっと受け続けさせられるように思うのだ。
そんなことを思い起こす。
私が書き記すことは限定的であり続けるなかで、どのようにして言葉を書くのか。言葉を残して、そしてアーカイヴに残された時、どのようにリアクションするのか?
言葉を書くことは、それを書きながら、目の前のディスプレイに反映された時、それを読者として読んでいる自分がいる。(一部略)パフォーマンスした結果はつねに、リフレクティブに私の前に立ち現れて、それを準拠しつつ、すでに書いたものは上上と保存されていく。
http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/50086353.html
だからこそ、ネットでもそれ以外でも、「キャラ」を作り、「キャラ」を演じなければならない社会が存在するとなると、そこは殺伐としたディズニーランドのように見えてしまうのかもしれないと思う。そしてそれをある種安定させる装置として機能する「ノスタルジア」としての『Always 三丁目の夕日』なのかもしれないと思う。かつては『キャラ』を演じなくても生きていける、懐かしさを喚起させる装置そのものがメディアにしかないし、その世界を盗み見るなかでしか、確保できないとすれば。
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また、話を「ネットで何かを書くこと」に戻せば、敢えて『作者』としてのはもちろん、M.フーコーを想起してのこと;
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当たり前のことですが、書かれたことを書かれたことのみで判断するのは、難しいです。ですが、私たちは必然的に書かれたものを読むときには、「書かれたもの」しか読むことができません。そしてそこに「読む側」の主体性が混在してしまいます。このエントリーを書いているワタシは、blog記入欄にAmazonのタグまで観ることになりますが、それをblogで読む方にとっては、そのタグはすでに織り込まれているのです。
そして、どういうことを当初書こうと思いつつ、さまざまに逡巡しながらいる「作者」であるワタシは想定されませんし。そのようなウラ読みを提供する方法は、難しいのです。
そしてそれは「芸」として、見せるものと見せないものの微妙な境界線上にあると思ったりしています。
(2007.10.06)