「真空」に抵抗するために

もうすでにたくさんの方がこの話題について触れられているのですが、自分も思ったことをいくつか書き連ねておきたい。

昨日(2008年5月26日)付けの『夕刊フジ』の記事より

元TBSアナ川田亜子さん自殺…都内路上で車中に練炭
直前のブログに「一番苦痛です」
 東京都港区内の自宅近くの路肩に止めたベンツの車内で26日朝、元TBSアナウンサーで、現在はフリーで活躍していた川田亜子さん(29)が死亡しているのが見つかった。車内には家族に宛てた遺書と練炭の燃えかすが残されていたことから自殺とみられる。関係者によると、川田さんは精神的に不安定だったといい、直前の自身のブログに「一番苦痛です」「いまはせつないです」と悩みを打ち明けていた。

 警視庁三田署によると、26日午前6時15分ごろ、東京都港区海岸の路上で、「車の中で女性が倒れている。車内に練炭のようなものがある」と近くに勤める会社員から110番があった。署員が駆け付けたところ、歩道に乗り上げるように止まっていた白いステーションワゴンタイプのベンツの運転席で、川田さんが助手席側にもたれ掛かるように倒れていた。

 既に死亡しており、死因は一酸化炭素中毒とみられる。後部座席には燃えた練炭のコンロ2個が残され、運転席の窓は内側から透明のビニールテープで目張りがされていた。車のダッシュボードには家族に宛てた遺書が残され、「疲れた」との言葉や家族への感謝がつづられていたという。

 現場は川田さんの自宅マンションから数百メートル。川田さんはグレーのパーカーに茶色のスカート、サンダルといったラフな服装だった。ベンツは事務所名義。ドアは未施錠で、エンジンも掛かっていなかった。現場は運送会社の事務所などが立ち並び、夜間の人通りは少ないが、前日の午後8−9時には既にベンツが目撃されていた。

 精神的に不安定だったとされる川田さんは、自身のブログにも心境を語っていた。「母の日」の翌日、5月12日には、「母の日に私は悪魔になってしまいました。産んでくれた母に、生きている意味を聞いてしまいました。母の涙が、私の涙がとまりません。母の涙が耳の奥で響いているのです」と記していた。
 5月14日には体調不良を訴え、「元気になるまで、皆さんとこうしてお話をするのを休憩させていただきます」とブログの休止を宣言。16日に再開したが「うーん 体がまだ元気!といかないようです」「少し体調が悪い私ですが、ちゃんと頑張って生きています」などとつづっていた。

 22日には「仕事の合間」と題し、「一番苦痛であります。昔は本を読んだりお茶をしたり、ぽーとしたり。楽しかったのに…今はせつないです。豪華なホテルのロビーで優雅に幸せそうにしている方々を眺めながら、移りゆく景色に胸がきゅーとしめつけられます」と苦しい胸の内を吐露していた。

 川田さんは1979年1月17日、金沢市出身。盛岡白百合学園から白百合女子大に進み、2002年にTBSに入社。整った顔立ちと長身(163センチ)で「あこちゃん」の愛称で人気となり、入社半年で朝の番組のメーンキャスターに抜擢されるなどTBSの顔として活躍した。主に「爆笑問題のバク天!」「はなまるマーケット」などバラエティーや情報番組に起用されていた。

 一方、2年目にはストレスから急性胃腸炎で倒れたことも。バラエティー中心の起用に、報道番組を希望していたといい、昨年3月に退社し、4月からフリーとして活動を始めていた。

 現在も同局系で「がっちりマンデー!!」(日曜午前7時半)にレギュラー出演していたほか、テレビ朝日系「サタデースクランブル」(土曜午前9時半)にも出演。キー局アナウンサーが退社直後にライバル局の番組でレギュラー出演することで話題を集めた。

 所属事務所によると、24日の午前中に放送された「サタデースクランブル」に生出演していた。

 川田さんの自殺について、TBS広報部は「突然のことで驚いております。心より、ご冥福をお祈り申し上げます」とコメントした。

ここで紹介したのは産経系のZAKZAK経由の記事だったけれど、その他のマスメディア各紙の記事もチェックしたし、彼女のオフィシャルブログもいくつか読んだ。

ただそれでも彼女が自死を選ぶ理由は正直分からなかった。元記事にあるように「悪魔になった」というエントリーの「悪魔」というのについて、彼女自身がなにを意図して書いているのはもうわからない。
それを想像するときもあったけれど、迂闊に想像力を担保とした文章を書くことはためらわれる。

ミクシィでもこの件について、2500近いエントリーが挙げられているのをすべてチェックできるほどの時間的・心理的な余裕はないけれど、彼女に対するなにかの感情があってのことだったのだろうと想像してしまう。
それだけ愛されている(と勝手に思うのだけど)、彼女に対してさまざまな追悼のコメントを寄せられているのを観ると、すごくどのように言葉を紡いでいいかわからなくなる。

それでもなお彼女の自死について何か書こうという動機を起こさせ、キーボードを叩かせるなにかは、彼女自身という存在だけでなく、「自死」という行為をそのものによるものかもしれない。
おそらく川田さんとは違う形で、自死という行為についてエントリーを書いたことを思い返す。
そのときのエントリーは以下の通りです。一部省略済み。

17分間の車内で母は何を考えたのだろうか?
毎日新聞』2007年7月9日付の記事より(リンク先はもうないはず);
無理心中:2児抱えた母、飛び込み死亡 兵庫の駅ホーム
 9日午後2時45分ごろ、兵庫県西宮市のJR東海道線甲子園口駅下りホームで、神戸市灘区の会社員、中畑啓子さん(27)が長女りつ子ちゃん(3)と次女まき子ちゃん(1)の2人を抱きかかえて線路に転落した。3人は、同駅を通過中の米原加古川行きの下り快速電車(6両編成、乗客約350人)にひかれ即死。県警甲子園署は目撃証言などから無理心中の可能性が高いとみている。同線などで28本が運休、最大43分遅れ、約2万4000人に影響した。

 調べでは、電車の運転士は「時速約100キロで運転中、ホームの中ほどから女性と手を引かれた子どもが線路に入るのが見え、非常ブレーキをかけたが、間に合わなかった」と証言。ホームにいた駅員は「子どもを抱きかかえた女性がホームから飛び込んだ」と話しているという。

 女性は夫(38)との4人家族。特に病気などの悩みごとはなかったといい、夫は同署の聴取に「朝はいつも通り見送ってくれた。思い当たるふしはない」と話しているという。

毎日新聞 2007年7月9日 21時19分 (最終更新時間 7月10日 0時43分)


また『読売新聞』2007年7月9日付の記事より;
女性会社員と娘2人、電車に飛び込み即死…JR甲子園口駅
 9日午後2時45分ごろ、兵庫県西宮市甲子園口のJR東海道線甲子園口駅で、神戸市灘区篠原南町、会社員中畑啓子さん(27)が、長女りつ子ちゃん(3)、二女まき子ちゃん(1)を連れてホームから線路に飛び込み、通過しようとした米原加古川行き快速電車(6両、乗客約350人)にはねられ、3人とも即死した。

 運転士(28)は「時速約100キロで走行中、女性が子供一人の手を引き、もう一人を抱いて飛び込んできた」と話しており、甲子園署は無理心中とみている。

 調べによると、中畑さんは大学非常勤講師の夫(38)と4人暮らし。夫は「今朝、妻はいつものように『行ってらっしゃい』と送ってくれた。特に変わった様子はなく、心当たりはない。なぜ甲子園口駅にいたのかもわからない」と話しているという。

 同線は、約40分後に運転を再開。後続の上下計28本が部分運休、21本が最大43分遅れ、約2万4000人に影響した。
(2007年7月9日21時31分 読売新聞)

ただただ、悲しいだけです。
このニュースを引用されている方のなかには「娘を巻き込んで何事か」と憤っていらっしゃる方もいましたが。ワタシは正直そこまで思えなかった。
1人残された夫のことを考えると、妻が自殺したことを非難もできないですし、子どもを道連れにしたことも非難できずにいます。
ただ、1つだけ想像するに、彼女たちが住んでいた家がある、神戸市灘区篠原南町から、線路に身を投げた兵庫県西宮市甲子園口駅まで、仮にJR東海道線を利用していたとするならば、六甲道駅から甲子園口駅までの17分間、母と娘は電車に乗っていたのだ。
もちろん母は、自宅から駅まで徒歩であれ自転車であれ、その道のりの間に、自死するまでの間に娘たちと一緒に過ごしていたのだから。
その間、母は何を思って娘を抱き、娘の手を引いていたのだろうか。ワタシは自死を試みることはないと思っている人間だし、これからも試みることはないと思っているが。
夏前の晴れた青空を車窓から眺めながら、自らの死を決意し、さらに自らの娘まで巻き込もうとしたときの気持ちを、まったく第三者的にしか考えられないときに、ただただ悲しくなる。

だけど、彼女たちの死をワタシはどこか遠くの出来事として、この文章を書いている自分がいることに気づくのだ。
「死」すらすでにその日の話題として、無意識に取り上げている自分自身にも。
その辺の混乱した状態とともに、母の死を求める最期のわずかな時間を、娘二人と電車の車内で何を考えていたのだろうか?

彼女たちの様子を想像するだけで、苦しくなる。

      • 以上2007年7月9日wrote---

2007.07.12.AM1:40続きを書く;
ワタシは現在婚姻関係がない。だけど、相方(パートナー、端的に言えば「彼女」)には娘がいる。
相方(ワタシは基本的に「カレシ」&「カノジョ」という言葉が大嫌いなので、そのまま通す)が、二人の娘を連れて、電車に身を轢きしかれるさまを想像するだけで、おそらくショックを受ける。こう簡単に書けないほどだと思う。
おそらく「悲しむ」以上のものだと思う。だけど、それがありながら、今まで書けずにいるのは、現状のワタシというスタンスがあるからだ。
単純に言えば、ワタシはこのニュースを第三者的に眺めている。
娘二人を手を引いて線路に連れた母親についても知らない。その父親についても知らない。そして3歳の娘についても、1歳の娘についても知らない。どこまでも伝聞であることを考える。
記事から類推することは簡単だけど、それ以上の先を考えなければならないと思うからだ。
安易な置き換えや類型化することを一度止めておくこと。
そして、ワタシはこの「死」を向き合うことなく数日生きていることを考える。生きているウチにおいて、「他者」の死は、完全に記憶をとどめている方法がなければ、とどめておくべき何かがなければ忘却される。忘却すらされないというべきかもしれない。


その日のウチの、ネタにしかならない。それが怖い状況になるが、その一端を担っていることも自覚しなければ。

そこでやはり考える。
別に母と娘の関係や、夫と妻の関係、その他諸々を超えて、人が「死」という行為を求めるのはなぜなんだろうか?
そして東海道線に乗っていたとするならば、「死」という達成されない行為を行うために向かった先に辿り着くまでの17分間をどのように過ごし、どのようなものを観ていたのだろうか?
走馬燈という簡単な言葉ではなく、母の目線から観ていたものをもう一度、ワタシという立場ではなく、できるだけ「当事者」の目線から。
そして、非難も賛同もする前に、彼女と彼女の娘たちが17分間の電車内にいた記憶をしつこく求める。

「ただただ、悲しいだけです」の未来と過去を見つめなければいけない。

「ただ悲しい」というかつてのワタシではなく、ワタシが次の「死」を受け入れると同時に受け入れないために。

そして、

>「ただ悲しい」というかつてのワタシではなく、ワタシが次の「死」を受け入れると同時に受け入れないために

と誤解を生むかもしれないが。
あえて書くとするならば、積極的な「自死」をワタシ個人としては否定できないという立場があるからだ。もちろん第三者(ここでは「母」に対する「娘」であり、「夫」であり、「家族」、「同僚」であり、その他諸々である)が道連れに「死」を甘受しろと言わない。
ただ、「死」を受け入れようとする人たちにむかって、「生」を続けろとも言えないのだから。このような曖昧なことになりますが。
「悲しくても」「悔しくても」。その時の感情に沿いながら、一時の感情だけにならずに立ち止まり、そしてその先に。

その先に、「その先」という「希望」があるかどうかは、まだわからない。そもそも「その先」=「希望」が達成されるものかもわからないし、「当事者」にとっては「その先」はそもそも存在しないのだから(だからこそワタシはこの記事を第三者的に「眺めている」のだから)。

Pearl Jamは[Immortality]という曲のなかで、「Someone die just to Live」と歌い、目取真俊は『希望』という名の小説のなかで「生きる希望」を描くために、あえて占領軍の子どもの死と、その殺害者の死を描くのだから。

ワタシは、誰かの死、そしてそれに巻き込まれる人々の死を軽々しく言葉にできない。

そう考えるのは「人間の死」というものが、センセーショナルなものとして扱われると同時に、数値化されている世界を同時に観ているからにすぎないかもしれない。
そこで、ワタシはどこか「人間の死」のスペクタクルを観る作法を知らず知らずに=無意識的に学んでいるのかもしれないと考えるからに他ならない。
(2007年7月12日 記す)

上記のエントリーのように、川田さんが自死という行為を遂行するために、道具を揃え、自分の自動車で自らの死ぬ場所を選び、テープで窓を目張りするような行為を想像してしまう。
その時には彼女自身の心の機微を想像してしまう。でもそれは想像するだけで、彼女自身のことを知ったと思うつもりにはならないのも自覚するし。

ただ自分の中で、自死という行為を思い返したときに、思い出すのは石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク5』にある『反自殺クラブ』の冒頭の、マコトくんの言葉だったり、永沢光雄さんの死に対する態度だったりする。

反自殺クラブ 池袋ウエストゲートパークV (文春文庫)

反自殺クラブ 池袋ウエストゲートパークV (文春文庫)

空は、今日も、青いか?

空は、今日も、青いか?

声をなくして

声をなくして

自死という行為を選んだ人はすでにいない。その結果をうけてなお、そこで遺された人にとって、その死とどのような形、態度で向き合うのかは永遠に答えのでない問いになるように思う。
もちろんその問いを、第三者であるワタシがとやかく言えることでもないし、川田さんの家族にとっては、永遠と思えるような時間をその問いと向き合っていくことになる、その苦痛しか共感し得ない。
池袋のマコトくんは、自死という行為の結果を「真空」といった。永沢光雄さんは「死」というものがすぐそばにあるとも書いていた。
see : 「永沢光雄さんの絶筆」(拙blog 2006年11月4日付エントリー【本サイトに行きます】)

川田亜子さんは、どの瞬間に「死」というものが自分のすぐそばにあると思ったんだろうか?そもそもそういう瞬間もないまま逝かれてしまったのだろうか。
深く絶望しつつ生きる境地を越えた先に訪れる、『癒し』(←かなり問題含みであることを承知で、さらにワタシ自身はこの言葉そのものに生理的な嫌悪感を感じますが)としての「死」という存在を感じることができたのだろうか。

軽々しく、自死を選んだ人間を否定できることも、肯定できることもない。
ただ池袋のマコトくんが「真空」と呼んだもの、音もなく匂いもなく飲み込んでしまう「真空」、ヴァニラ・アイスのスタンド「クリーム」や虹村億泰のスタンド「ザ・ハンド」のように、その存在を哲学的・宇宙物理学的ななにかでしかわかり得ないような存在の消し方の結果として、「真空」が発生するとするならば、ワタシの中のぽっかりと空いた空洞のような虚無感はそもそも「真空」としてあるように思われる。
それは個人的な妄想の範囲内の、極私的な心性なんだし、マスメディアによって映し出される彼女以外をまったく持って知らない、一ファンのつぶやきぐらいにしかならない。そうも自覚している。

「ワタシの中のぽっかりと空いた空洞のような虚無感」を悲しみとか、痛みとか、苦しみとか、便宜的な言葉によって表象することの難しさもある。
そこにあるのはただ、かつてあった者が今はもういないというだけのなにかのように思えたりする。
その「真空」状態にどのように抵抗することができるのか。そもそもそれは抵抗するものなのか。正直なところわからない。ただ書くという行為において、その「自死」という行為が2007年に日本という範域のなかで、3万件以上おこっていることも忘れてはいけないと思ったりする。
cf.http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm

Excelでグラフ化したときに、ただ数値として「32155」と最近値を出され、比較されるデータとしてあつかわれるものをみると、おそらく川田さんの自死も数ヶ月後には、「東京都の自殺者の1事例」としてカウントされるだろう。それはどんなにあがなったとしてもだ。そしてそれは既に日本国という近代国家の中における「人口」という尺度の増減の数としてカウントされることも忘れておきたくない。
そしてその「自死」を選んだ数だけの「真空」がこの近代国家の中には存在するのだということも。さらに「真空」がすぐそばにあり、その真空が伝播する可能性があるということも。

ここまで書いていて、だいぶ予想以上に長くなったあとにふと思う。
ワタシ自身が、彼女の死についてここまで書くのと同じように、まったく知らない誰かの自死について書けるのだろうかと。さらに「自死」という行為ではない「死」についても同じように悲しむことができるのかと。

さらにこれまでいくつかのLivedoor RSSに登録しているブログをチェックするたびに、そこで別のユーザーがBlogを継続したまま亡くなられているケースがあることに気づく。
もしかして、ブログというのは公開されている遺書をみんな書き連ねているのかもしれないなと思う。

川田さんの死については、彼女のブログがたびたび取り上げられているけれど、その内容と彼女の自死に因果性を見出してよいのだろうかとも思う。

最後になりますが、川田亜子さんのご冥福をお祈り致します。
そして、林由美香さんのこともありますが、川田亜子さん自身のことを「追悼するという行為で忘れてしまう」ことがないように自戒したいです。
改めて、以前のエピグラフの文章をもう一度書いておきます。

女優 林由美香 (映画秘宝COLLECTION (35))

女優 林由美香 (映画秘宝COLLECTION (35))

柳下毅一郎,2006,『女優 林由美香洋泉社.「まえがき」より。
追悼とは生を思い返し、死を悲しむことである。生前の姿をふりかえり、その死のかたちを、ひいては生のかたちを決めることだ。死のかたちを決めるのは死者をあの世に送り、その霊を安んじるためである。我々は死者を忘れるために追悼する。