感覚と人形

ずっと前からキーワードとして思っていた言葉は『人形』だった。

そしてその理由はなぜかと言われたら、と考えることもあるけれど。
よくよく考えたら、ワタシという人間は「感覚」といわれるあらゆる事柄について、基本的に鈍感であると思う。
もっとも、周りの人たちには、そういうワタシの性質でだいぶ迷惑をかけていると思う。

感覚とは何か?
この文脈で単純に言えば、「感じる」という能力が圧倒的に欠如していることだ。
そして「感じた」ことについて、それを言葉に出来ること、言葉として誰か・他者に伝えることができないことだと思う。
そして単純に言えば、「ノリが悪い」ということだ。

こんなことを書くと多方面から怒られると思うけれど。
祭にはまっている人たちの、肝心要の言葉は正直理解不能なときがある。それと同じことを経験したのは1995年10月21日の宜野湾でのあるライヴだったと思う。
美しい女子高校生が有名なスピーチをして、彼女の言葉はメディアによって再三殉教した娘の最後の言葉のように使われてしまう言葉を聞いたはずなのに、その時の記憶は、ライヴになんでこんなに集まるんだろう?という素朴の疑問しか憶えていない。

その時からの素朴な疑問は、おそらくワタシのなかでは永遠に取れない、喉の小骨みたいなものだ。
冨山一郎的にいえば「滓」なんだろうけど。
そこへのなにかって、単純に表現できないで、ずっと生きていると思う。
何かに対して「愛」やら「愛着」とかを語る時の言葉のわかりえなさというものと付き合っていくときに、何らかの事柄に対して「真っ直ぐさ」を言える人たちはすごく羨ましいと素直に思う。

暴力の予感

暴力の予感

石田衣良を経由したマコト君がラジオについて、「本気で好きなモノを見つけたヤツは幸せ」だといったことを思い出すのだ。
なにかに「愛」を言える人は、ワタシにとって、未知なる存在にみえる時がある。
ワタシという人間が、なにかを感受する時に、それを言葉にしだしたり、先にある言葉を使ってしまう時。

池袋ウエストゲートパーク (文春文庫)

池袋ウエストゲートパーク (文春文庫)

そのとき、ワタシという人間は、おそらく人形的な性質を持っているのだと思う時がある。

例えば、ある祭が終わって、リクエストしたPVが流せるバーでオーダーした曲はPearl JamのJeremyだった。

この映像、今見ると主人公の男の子が、言葉にできない怒りを表現しているという風な捉え方をされるかもしれないが、おそらく逆なんじゃないかと思ったりする。教室で返り血を浴びたり、巨大な目に監視される静止した両親が「生きている」主体であり、真ん中で意味もわからず怒り狂っているのが人形だと。
つまり単純に言えば、『感覚』というモノが共有されるものであるならば、共有された時に同じリアクションを取ることが可能になる。
共有する/される感覚=共感=Sympathyへの極端なアクセス不可能性というものを突きつけられた時に、それがきわめて「ワタシという人間」は「人形」なんだなぁと。
共感=Sympathyを受け入れるだけの器と対応策としての言葉だけを蓄積しているだけで「生きた人間としての感覚」としての発話というモノがないように思われる。

言葉というものを通じてのみしか、語り得ないワタシが、発話する時に紡ぎ出される言葉がとても軽く、抽象的で、定型文化されたときに、おそらくはたくさんの言葉を使ったとしても記号化されて、分析の対象となるぐらいにしかならないだろうなぁと考える。

ワタシという人間はどこかで「感覚」を感受する部分と、それを伝える部分、それを翻訳する部分が、極度に欠陥した人間なのだと思う。
だからこそもう一つ目のリクエストがSpice Girlsだと。

この映像で、時間と自己という話をかんがえてしまう。たくさんの時間を示す記号が流星のように流れ時に、5人の少女はずっと同じ状況で歌っている。
この状況がおそらくワタシにとっての貴重な瞬間だったと思う。
浅野先生じゃないけれど、「感覚」の欠如した人間が「物語」を紡ぐということは、「物語」を語るよりも、その前の段階−「物語」にならないなにかを確認させられる段階−で、かなりの苦痛を伴うのではないかと。

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

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単純な「感覚」や「愛」とかを、素直に言葉にできる人間を眼にした時、自分の価値観やこれまでの人生がすべてひっくり返りそうになる。

「物語」を語りうるほどの、要素もキーワードもほとんどない人間である以上、借り物であったとしても、そこで使える道具すらも否定されるほどの影響力を語るというのは、物語化するほどになる前の段階で、フリーズする。
これまでの「物語」が語り得ないときには、おそらく与えられたキーワードをちりばめられた人形になっているのだと。

そのときにもう1人思い出すのは、Aimee Mann

彼女は、個人的に言えば、透明な存在であるもの=人形を肯定する。
そしてLost In Spiceな状態であることも肯定する。

3組のアーティストを並べてみるともう1人思い出す。
彼の名はLenineである。
なぜか、彼の声は惹かれる。ワタシが人形でない時に聞くアーティストは、かれなんだ。「Distantes Demais」。

上の映像は違う曲ですが。ちなみにタイトルは「Dois Olhos Negros」です。

おそらく、ワタシが「沖縄県生まれ」という記号を介されて理解される時、ワタシの中で圧倒的に「沖縄らしい」ものは、CDショップのなかでアルファベット順で並べられているCDであったりする。そういうのがひねくれ者な自意識を醸成したと思う。
感覚的に「沖縄的なる者であること」ことは、ワタシにとって極端な言い方で言えば、「それを言ってどうする」ということだ。
2年前、ワタシの妹は宮城島へドライブのときに、兄であるワタシに次のように言った。

「沖縄の人が、無理して『【沖縄の人】になろうとする』のが嫌いなんだよね」

この感覚がワタシにも共通する。兄であるワタシは痛いほどわかる。おそらく人形としてのワタシは、与えられた記号としての何かに猛烈な拒絶感があるときがあるんだと。
そしてワタシはいつの間にか「ナイチャーになったウチナーンチュ」と呼ばれることもあった。
おそらく「感覚」として、ワタシは人形のように見られているワタシと付き合っていかざるを得ないのだと。
最終的には出生地主義っぽい話になるなぁ。物語化が嫌いなくせに物語っているし。
自己嫌悪のループになるなぁ。