良い/悪い スティグマ

ふとだいぶ前のエントリーに関連して思ったことだけど。

スティグマというのが烙印だとすれば、それはネガティブだけのものなのだろうか?むしろポジティブな意味での烙印を押された側がそのスティグマに対して対抗できないことがあるように思う。

そもそもスティグマなりラベリングを貼る人間は、「貼る」とか「貼った」という行為が自分の行った意識的な行為であると思うことは稀ではないんだろうか。
そうでなければ、自分自身も、他者もラベリングしたり、ジョック・ヤングがいうような「悪魔化」もしないわけだし、そもそもスティグマ化されるとき、そのスティグマ化する対象は、他者や自分自身をスティグマ化しますよ。っていうことはないわけだよね。

さらに問題なのはそのスティグマが、悪意あるラベルではなく、うらやましがれるとか憧れるラベルであるときであるし、それがスティグマを貼られる側にとって苦痛以外にも何者でもない時であるとおもう。
ずっと前の議論を蒸し返すようだけれど。スティグマを貼っている人は、貼られている人がその言葉やタグやカテゴリーがスティグマであるかどうか、本当のところわからない。
ラベリングというなら、ある程度、カテゴライズされるけれど、スティグマ化される言葉は良くも悪くも、その言葉を投げつけた当事者と、受け取られた当事者全く異なるシニフィエシニフィアンを抱くと思う。
私事で恐縮ですが、「彼氏」「彼女」とかいう言葉を使っている人間は、自分自身が他者に対してスティグマ化していることを自覚していないと思う。
「彼氏」「彼女」という言葉を語る主体は、必ず必然的に「自分自身の」という所有的なニュアンスを含んでいるからだ。
そうでなければ、「彼氏」は「向こうにいる男性」であり、「彼女」は「向こうにいる女性」であり、必ずしもパートナーという言葉ではないのだから。
そういう意味では、個人的には「彼氏」「彼女」も結局のところ所有的なスタンスで、主導権は発話者であるというスタンスがいやなんですよね。

しかもそういうたとえを出したところで、悪いスティグマについてはそれなりに知識があるのですが、自分がよかれと思ってカテゴライズしたり、スティグマ化する言動には正直突っ込めない。

善意の暴力という言葉がなければ、作っちゃうけれど。
良かれと思ったラベリングほど、ぬぐえないし、それが相当メンドクサイと思うことは多分異様に多いと思う。

ワタシ自身は常に「可能性としての誤謬」ということを考えてしまうけれど、そこで「立ちすくむ」云々ではないんだよなぁ。
結局のところ「立ちすくむ」とか言える人間は、自分自身のことが前提として間違っていないだろう、といういい意味でのスティグマを自分自身にしてしまったあとで、その前提がひっくり返る時に起こる現象で、それまでの前提やスタンスそのものには全く「立ちすくむ」云々なんてないんだよね。ただ自分自身が意図的にでも無意識的にでもスティグマしていることすらわからないままだったんではないかと。
なんか5年前の学会の追記っぽいけれど、おそらくその辺スルーされていたよなぁと思ったりするんだが。
それこそ次は「方法としての」ってなるんだろうか。

いい加減、いつまでも「立ちすくんでいる」のはあの本のきっかけになったといわれ続けたワタシの発言であり、ワタシ自身がその発言にどのように折り合いをつけるのかもしれないなぁと思ったりする。
結局暇人ですね>自分。