ある中学生の読んでいる本からの省察

 水曜は太鼓の練習日。

 早寝しようとしたが、結局ダラダラ起きちゃったので、太鼓の時のフィールドノーツを書いておく。

 本当は、一切れのマグロからグローバリゼーションを考える(Skeltia_vergber on the Web 2008年8月27日付)に対して、sumita-mさんから寿司に関する質問を頂いたのでそのことから書き起こさないければならないけれど、手元にアイゼンバーグの『スシエコノミー』がないので、ご指摘頂いた点や、先のエントリーで記述できなかったことについて同書を確認しなければならない。
 Cf.http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081007/1223349545

スシエコノミー

スシエコノミー

 それにしてもsumita-mさんが指摘された〈山葵のグローバル化〉は盲点でした。そもそも寿司屋にあまり行かないので、想像つかないけれど、〈ガリグローバル化〉なども考えられるのかもしれないなぁと。
 あと同書では、確か『日本らしさ』を表出するためにと、スタッフ同士の会話を客に感づかせないための言語(いわゆる「あがり」や「つぼ」などというタームと思っていいです)として、あえて日本語を母語としないスタッフ=板前さん同士でも、日本語でコミュニケーションしていたと記述があったはず。
 あとマグロという魚がトロとして珍重されるのは、GHQ統治下からであり、もともとは「トロ」ではなかったと記述があったはず。
これも要確認。あと水産資源としてのマグロについてはR25でも取り上げられていた。
 Cf.http://r25.jp/magazine/ranking_review/10008000/1112006111609.htmlhttp://r25.jp/magazine/ranking_review/10008000/1112005102716.htmlhttp://r25.jp/magazine/ranking_review/10008000/1112008090401.html

 それはさておき、太鼓の練習の一コマ。
 午後8時からの練習中に、ワタシと同じ頃に太鼓を始めた女の子が鞄の中から、見慣れたカバーの文庫本を読んでいた。秋田書店のマンガ文庫だった。
 彼女が読んでいるのは、手塚治虫著『どろろ』。

どろろ (1) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

どろろ (1) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

どろろ (2) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

どろろ (2) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

どろろ (3) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

どろろ (3) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

 ちなみに彼女とちょっとだけお喋りする機会があったのだが、同時に読んでいる手塚作品は「BJ」とのこと。

Black Jack―The best 12stories by Osamu Tezuka (1) (秋田文庫)

Black Jack―The best 12stories by Osamu Tezuka (1) (秋田文庫)

 ワタシも手塚作品については、秋田文庫にてお世話になった世代、すなわち手塚治虫が存命の時は、生を受けていたが「マンガ家」としての手塚治虫に出会ったのは、彼の死後であり、日本におけるアニメーションの先駆者として、もちろん白黒の『鉄腕アトム』は懐古的な番組によって知ったクチだ。実写版の『鉄腕アトム』の存在と映像を教えてくれたのは、山瀬まみだし、その映像を観たのはTBSの伝説的に素晴らしい番組『所さんの20世紀解体新書』だったはず。
所さんの20世紀解体新書

所さんの20世紀解体新書

 なので、現在三十歳のワタシにとって、手塚治虫はアニメの人ではないし、そもそもそのころのアニメを観たことがない。あくまでも手塚はアニメでかつて有名だったマンガ家であり、彼の業績は同じ時代をかすっただけで、死後に「発見」された作家だと思う。ちょうど藤子F.不二雄のドラえもんをアニメとマンガの両方によって育ったワタシは、彼女と同じように手塚は「再発見」であり「発掘」すべき対象ではないかと思う。そして彼女とワタシが決定的に違うのは、彼女は図書館でそれが手に入るのと、ワタシは買い集めるしかないという点だ。ちなみにワタシが『ブラックジャック』を読んでいないのは、その当時の金銭感覚による。ちょうど10年くらい前のことだし、ワタシにとっての手塚作品は『アドルフに告ぐ』と『人間昆虫記』、さらにいえば『クレータ』と『火の鳥』によって作られていて、そして手塚に対するさまざまな立ち位置やら批評などを斜め読みして形成されているのだろう。
 個人的には『アドルフに告ぐ』の峠草平は、永沢光雄並みの参与観察者だと思うときもある。

人間昆虫記 (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

人間昆虫記 (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

火の鳥 1 黎明編 (角川文庫)

火の鳥 1 黎明編 (角川文庫)

ザ・クレーター (1) (秋田文庫)

ザ・クレーター (1) (秋田文庫)

 ちょっと長くなったけれど、現在中学1年生の彼女が、現在「読書中」として次に取り上げた小説が、山田悠介によるものだった。
親指さがし (幻冬舎文庫)

親指さがし (幻冬舎文庫)

 ネットの書評による山田悠介著『リアル鬼ごっこ』がいかに酷いかは知っているが、美嘉著『恋空』が2年連続文芸部門の2年連続Top3に入っていることを考えると、批評して叩いているだけでは、読み切れない読者層が存在することをきちんと俎上におくべきだし。それがブルデュー的な文化資本云々ではないのも確かにあるのは把握すべきだと思う。
[rakuten:book:11917733:detail]
[rakuten:book:11917734:detail]
ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 そもそも「読書する」という行為を教育機関や行政機関が推進したときに、あくまでもその行為と、メディアの体裁としての「本」なり「マンガ」を推奨したことは否めない。図書館でも新聞や雑誌はあるから。そうするとパッケージの問題か?
 それからその彼女と喋っていると、彼女の中では手塚治虫でも山田悠介でも、同じ図書館の本と思っていることを聞かされた。

 そうすると読書メーターみたいに、ある種「読書することが記録されるもの」であり、「読書すること」よりもメーターの数値を挙げることになるのではないかと思ったりする。もちろんこれはアナログ時代の「読書冊数」が増えると、褒められるということに繋がるんだけれど。
 いちおう、サイドバーの「お仕事」欄に共著を載せている人間として、少し思うのは「読むこと」や「読書する」ことのへの数値化に対する違和感だったりする。これはただ「読みやすい本をたくさん読みました。へぇ〜すごいねぇ」って違和感〈もしかすると嫉妬感)ではなくて、別の水準だと思う。おそらくもっとも的確な言葉は「消費」だと思う。
 「読書する」ことは、おそらく描かれた世界や主人公を含む登場人物に共感するだけでは「消費」したとは言えないように思うのだ。その共感の度合いを高めることでも、さまざまな物語や人物に接することでもいいのだが、それを「消費」して、血肉にして、それを放棄するまで。ふと思い出すような本を読むことが、もしかしたらログ化する先にある「読書する」ことなんだろう。

 ところで、13歳の女性に『人間昆虫記』や『奇子』など、ちょっぴりエログロ、サスペンス的なマンガ貸していいのかな?

奇子 (上) (角川文庫)

奇子 (上) (角川文庫)

奇子 (下) (角川文庫)

奇子 (下) (角川文庫)

 ちなみに2人の「神」の断絶性と共通性(Skeltia_vergber on the Web 2007年11月19日付)にて、「マンガ」における「神」と称される作家について、ちょっぴり考察した。
 (2008.10.8)